翠雲荘の夜
塀は古い。苔が石の継ぎ目に滲んでいた。表札はなかった。タクシーを降りて、三条院のメッセージに書いてあった通りに、塀に沿って二十歩歩いた。二十歩目に、木戸があった。木戸の横に、インターフォンが一つだけ、石壁に埋め込まれていた。
ボタンを押した。
三秒後に、木戸が開いた。開けたのは、着物姿の仲居だった。仲居は何も聞かなかった。俺の顔を見ただけで、頭を下げて、奥へ案内した。名前を聞かれなかったということは、俺の顔を知っていたということだった。三条院が事前に写真を渡していたのだろう。
廊下を歩いた。廊下は畳敷きだった。藺草の匂いが足元から立ち上がった。匂いの中に、もう一つ、違う匂いが混じっていた。白檀。それも、安物ではない。
障子が開いた。
奥座敷は広かった。二十畳ほどの部屋に、十二人の男女が座っていた。座卓が三つ。各座卓に四人ずつ。全員が、着席したまま、俺のほうを見た。
十二人の顔の中に、二つだけ、テレビで見たことのある顔があった。
一つは、現職の国会議員だった。名前は知らなかった。テレビの討論番組で、早口で相手を追い詰める話し方をする男だった。
もう一つは——もう一つは、思い出せなかった。見たことがあるのに、名前も肩書きも、浮かんでこなかった。
「灰谷さん」
三条院麗華が、奥の座卓から立ち上がった。今夜の彼女は、薄い青鼠色の着物を着ていた。帯の柄が、壁に掛けられた掛け軸の墨跡と同じ流れだった。計算しているのか、天然なのか。たぶん、計算だった。
「ようこそ。こちらにどうぞ」
三条院は、俺を一番奥の座卓に座らせた。座卓の向かいに、二人の男が座っていた。
「桐生大臣の秘書官の方です。そして、こちらは財務省の梶原さん」
桐生の秘書官は、五十代の痩せた男だった。目の下に隈があった。梶原は、四十代半ばの、きちんとした背広の男だった。背広の仕立ては良かった。官僚にしては良すぎた。
俺の右手の器が、二人の才能を、同時に嗅いだ。
桐生の秘書官。行政手腕。根回し、調整、局面の読み。政治家の懐で何十年も生き延びてきた人間の嗅覚。
梶原。政策立案能力。数字の裏にある構造を見抜く力。予算編成の季節に、他の官僚が見落とす抜け穴を、三手先で塞ぐ能力。
どちらも、美味そうだった。
◇
日本酒が注がれた。仲居が徳利を傾ける音が、透明だった。液体が杯に当たる音は、ほとんど聞こえなかった。
桐生の秘書官が、俺に話しかけてきた。
「灰谷さんは、久我山会長のご指名と聞きました。随分と若い方を」
「恐縮です」
「いやいや。若い方がいい。我々は、もう古いですから」
秘書官は笑った。笑い方が上手だった。上手すぎた。この笑い方は、何千回も使い込まれた道具だった。
梶原は黙って日本酒を飲んでいた。飲みながら、俺の話を聞いていた。聞いている目が、査定の目だった。
「灰谷さん。久我山グループの新規事業、拝見しました。ヘルスケアデータ解析は、規制の壁が厚い分野ですが」
「おっしゃる通りです」
俺は、梶原の目を見て答えた。答えながら、宮園の思考力で、梶原が次に言う言葉を予測した。予測は当たった。
「厚労省の薬事審議会との調整は、どうされるおつもりですか」
「来月の審議会で、規制サンドボックスの申請を出す予定です。既に経産省の担当課とは内諾を得ています」
梶原の目が、一瞬だけ、開いた。開いた理由は、俺が審議会の日程を正確に知っていたからだった。日程は非公開だった。俺が知っていたのは、久我山のネットワーク経由だった。
三条院が、横から微笑んだ。
「灰谷さんは、勉強家でいらっしゃるの」
「久我山会長に鍛えられまして」
嘘だった。鍛えられたのではなく、喰ったのだ。結城の分析力で官庁のリリースを読み、宮園の思考力で審議会の委員の論文を先読みし、安藤の反射神経で梶原の表情の変化を読み取っていた。
日本酒を飲んだ。杯を下ろした。下ろした時に、桐生の秘書官の肩が近かった。
「いい酒ですね」
「ええ。翠雲荘の酒は、外では飲めないものばかりで」
俺は秘書官に手を差し出した。
「改めて、よろしくお願いいたします」
秘書官は、反射的に手を握った。
三秒。
行政手腕が、指先から腕を伝って、俺の器に流れ込んだ。根回しのパターン。局面判断の嗅覚。大臣のスケジュールを三ヶ月先まで計算する思考の型。国会答弁の想定問答を百二十通り作った経験の記憶の欠片。
秘書官の手を離した。
秘書官は、何も気づかなかった。杯を持ち直して、日本酒をもう一口飲んだ。
十分後、梶原が席を立つ時に、俺は座卓の角で自然にすれ違った。すれ違いざまに、梶原の肘に触れた。
二秒。
政策立案能力が入ってきた。予算編成の構造が、建物の設計図のように、俺の頭の中に組み上がった。同時に、梶原の記憶の断片が混じった。天下り先の利権構造。特定の法人への補助金の流れ。経産省と厚労省の間の、表には出ない取引の回路図。
梶原は、廊下に出てから、一度だけ振り返った。振り返った顔に、困惑のようなものが浮かんでいた。困惑の正体を、梶原自身は理解していなかった。
◇
翠雲荘を出たのは、午後十一時過ぎだった。
タクシーの後部座席で、窓の外の赤坂の夜景を見ていた。ネオンの光が流れていた。光の一つ一つが、利権と補助金と政策の節目に対応しているように見えた。梶原の記憶がまだ鮮明だった。
スマートフォンの画面を開いた。来月の審議会の資料を読み直した。読み直すまでもなかった。梶原の目を通して見れば、政策の盲点が三つ、即座に浮かび上がった。二つは規制緩和で突破できる。三つ目は——三つ目は、桐生大臣の秘書官の根回しルートを使えば、審議会の前に委員を一人、抱き込める。
奪った才能が、俺の中で、勝手に統合されていた。
統合された結果を、俺は使う。使うことに、何の躊躇いもなかった。躊躇いは、宮園を奪った頃に、なくなっていた。
タクシーの窓に、俺の顔が映った。映った顔の目の中に、さっき奪った二人分の光が、新しく、加わっていた。
俺にはその資格がある。
そう思った。思ったことが自然だった。自然であることが、たぶん、一番の証拠だった。
何の証拠か。
考えなかった。
◇
同じ頃、赤坂の路上で、三条院麗華のスマートフォンが鳴っていた。
電話の相手は秘書だった。
「三条院様。灰谷透真の経歴の再調査結果が出ました」
「何かあった?」
「半年前までただの平社員です。中堅メーカーの営業部。成績は中の下。上司からの評価は可もなく不可もなく。社内表彰歴ゼロ」
三条院は、翠雲荘の塀の前で足を止めた。
「それが今は久我山グループの戦略室長。半年で」
「はい。それと、灰谷と接触した後に業績が急落した元同僚が複数名います」
三条院の目が、塀の苔を見ていた。苔の上を、小さな虫が一匹、歩いていた。
「面白いわね」
秘書は、電話の向こうで黙った。黙った秘書に、三条院は続けた。
「面白い、と言ったの」
「……はい」
「あの人は使える。使い方を間違えなければ」
三条院は電話を切った。切った後のスマートフォンの画面に、灰谷のプロフィール写真が映っていた。半年前の社員証の写真と、今夜の翠雲荘で撮った写真を、秘書が並べて送ってきていた。
同じ人間の顔だった。
同じ人間の顔では、なかった。
三条院の目は、笑っていなかった。




