フィクサーの招待状
帝国ホテルの宴会場は、三百人の人間と、三百人分の欲望で、満ちていた。天井のシャンデリアの光が、男たちの胸ポケットのチーフに反射して、白い点が会場のあちこちで瞬いていた。
久我山グループの新規事業発表会のアフターパーティーだった。
壇上でのプレゼンは、今日も完璧だった。完璧という言葉を、俺はもう、自分に対して自然に使えるようになっていた。半年前の俺なら——半年前の俺のことは、思い出しても仕方がなかった。
会場を歩いた。歩きながら、すれ違う人間たちの顔を見た。見ているのは顔ではなかった。顔の向こう側にある才能を、俺の右手の中央の器が、自動的に計量していた。
重い。軽い。つまらない。
中堅企業の社長。IR担当の役員。経済誌の記者。金融アナリスト。全員が、俺の器の中に入っているものより小さかった。小さいものを喰っても、もう、何も変わらなかった。
「灰谷室長、こちらの名刺を——」
「ああ、ありがとうございます」
名刺を受け取った。受け取った名刺の肩書きを、宮園の思考力が一瞬で読み取って分類して捨てた。捨てた後に残ったのは、「この人間は喰っても意味がない」という結論だけだった。
結論が出てから、相手の顔を見た。順序が逆だと思った。思ったが、正しい順序がどちらだったかは、もう、わからなかった。
相手は笑っていた。名刺交換の定型の笑顔。俺も笑った。俺の笑い方は、本郷の営業スマイルと田村の交渉の微笑みを自動的に配合したもので、効果は高かった。相手が一歩近づいて、肩に触れようとした。俺は半歩下がった。触れさせない。意味のない接触で、手のひらが勝手に開くことが、最近、増えていた。
シャンパンを一口飲んだ。喉を通る泡の感覚の中に、料理長の味覚が混じっていた。料理長の味覚はまだ俺のものではなかったが、安藤の身体感覚と宮園の分析力が勝手に味を分解していた。グラスの中の液体は、千五百円のスパークリングワインだった。この規模のパーティーにしては安い。久我山はその辺りに金をかけない。
◇
声は、背後から来た。
「随分と、つまらなそうな顔をしていますね」
振り返った。
女が立っていた。黒いドレスに、真珠の一連のネックレス。髪は緩く巻き上げられていて、左耳の下に一筋だけ垂れていた。顔は整っていた。整い方が、計算されていた。
俺の器が、反応しなかった。
反応しないことに、俺は、驚いた。
「三条院麗華です。久我山会長には、以前からお世話になっています」
三条院。
久我山が「今夜はまだ紹介せん」と言った名前。「あの方の目は駒を選ぶ目や」と警告した名前。
「灰谷です。こちらこそ——」
「お名前は存じ上げています」
三条院は、俺の言葉を遮った。遮り方が、丁寧だった。丁寧に遮るということは、俺より上の位置から話しているということだった。
「最近の灰谷さんのご活躍は、あちこちで耳にしています。半年前まで、別のお仕事をされていたとか」
別のお仕事。中堅メーカーの営業部の平社員。彼女はそれを知っていて、わざと柔らかい言い方をしている。
「ええ、おかげさまで」
「おかげさまで、ではないでしょう?」
三条院は、微笑んだ。微笑みの中に、牙があった。
「実力です。久我山会長が見出した実力。それは間違いない」
彼女の視線が、俺の顔から一度外れた。外れた先は、会場の奥にいた久我山の背中だった。視線が戻った時、彼女の目の中に、値踏みの光が、はっきりと、あった。
「灰谷さん。一つ、お誘いしたいところがあるのですが」
「どちらですか」
「赤坂に、翠雲荘という場所があります」
彼女は、名刺を差し出した。名刺の裏に、手書きの文字が書いてあった。「赤坂・翠雲荘」。住所はなかった。
「来週の木曜日の夜に、小さな集まりがあります。久我山会長のお知り合いであれば、ご招待できます」
名刺を受け取った。受け取った時に、彼女の指先が、俺の指先に触れた。触れた瞬間に——何も起きなかった。器が開かなかった。
器が開かなかったのではなく、俺が開かなかった。理由は、この女の才能を奪う必要がなかったからだった。この女に才能はなかった。この女が持っているのは、才能ではなく、位置だった。生まれた場所と、繋がっている人間と、使える力の座標。
俺が欲しいのは才能だった。けれど、才能を狩るための狩り場は、この女が持っていた。
「ぜひ伺います」
「嬉しいわ」
三条院は、もう一度微笑んだ。微笑みは先ほどと同じだった。だが、今度は俺にも微笑みの裏が読めた。彼女は俺を見ていなかった。俺の頭のすぐ上——半年後に俺が立つ場所を見ていた。
「あなた、本当は何者なの?」
去り際に、彼女は振り返って言った。
その声は、質問ではなかった。確認だった。この男は使える、という確認。
背筋に冷たいものが走った。
冷たさの正体は、恐怖ではなかった。征服欲だった。この女の持っている狩り場を、そっくり俺のものにできる。その確信が、背骨の芯を、熱く、震わせていた。
◇
同じ夜。
警視庁の地下二階で、蛍光灯が一本、点滅していた。
特殊対策室のデスクの上に、氷室奏のモニターが三台、並んでいた。モニターの光だけが、部屋の中の時間を進めていた。
氷室は、キーボードの上で、指を止めていた。指を止めた理由は、画面の中のデータベースが、新しい結果を返したからだった。
「被害者行動履歴データベースの構築が完了しました」
真壁は、自分のデスクの椅子に座ったまま、手帳を開いていた。手帳の中には、先週の発表会で書いた最後の一行が残っていた。『目が合った。この男は獲物を選ぶ目をしている。しかし今日は俺が獲物を選ぶ側だ』
「全被害者の発症前三十日間の行動を入力しました。クレジットカード使用履歴、交通系ICカードのログ、SNSの位置情報タグ。取得できたデータに限りますが、十三名中九名分の行動パターンが復元できています」
「で」
「接触者の洗い出しを始めます。発症前三十日間に複数の被害者と物理的に同じ場所にいた人物を、全てのデータから抽出します」
真壁は、手帳を閉じた。
「灰谷透真が出てくるか」
「灰谷を特定するための分析ではありません。全ての接触者を網羅的に洗い出すための分析です」
氷室の声は、正確だった。正確であることが、氷室の矜持だった。
「結果は二十三名の候補リストになる見込みです。その中に灰谷が含まれるかどうかは、データが決めます」
真壁は、コートの内ポケットから灰谷の写真を取り出した。取り出した写真は、久我山グループの役員紹介ページからプリントしたものだった。写真の中の灰谷透真は、プレゼンの壇上で見た男と同じ顔をしていた。
「氷室。あの日、壇上で見た灰谷の動きは、一人の人間の動きじゃなかった」
「具体的に」
「声の中に、複数の人間の話し方が混じっていた。営業マンの説得力と、分析官みたいな精密さと、もう一つ、俺には分類できない何かが。一つの口から、三つの声が出ていた」
氷室は、キーボードの上で指を止めた。
「主観的な印象は、証拠にはなりません」
「わかっている。だからお前のデータが要る」
キーボードを叩く乾いた音が、特殊対策室の中に響いた。モニターの画面に、被害者の顔写真の列が、縦に並んでいた。安藤圭吾。瀬川陽人。宮園春人。新たに加わった五人の名前。その全ての線の先に、まだ見えない一つの点があった。
真壁は、立ち上がった。コートの袖口のボタンを留め直した。
「今夜、久我山グループのパーティーがある。灰谷も出席しているはずだ」
「尾行しますか」
「いや。今はまだ泳がせる」
真壁は、灰谷の写真を内ポケットに戻した。戻す時に、写真の中の灰谷の目が、一瞬だけ、真壁の指先を見上げたように見えた。
蛍光灯が、もう一度、点滅した。




