接点
写真の横に、被害者の名前が、縦に並んでいた。安藤圭吾。瀬川陽人。宮園春人。大学教授。料理長。画家。ピアニスト。プログラマー。本郷誠一。田村。新井。
十一の名前から、赤いマーカーの線が、灰谷の写真に向かって引かれていた。放射状に。全ての線が、一つの顔を指していた。
氷室が、ホワイトボードの前に立って、報告を始めた。
「灰谷透真をキーワードに、全被害者の行動履歴を再分析した結果を報告します」
氷室の声は、いつもと同じ温度だった。温度は同じなのに、内容は、これまでの報告とは違った。
「安藤圭吾。発症前に通っていたスポーツジムの体験入会記録に、灰谷透真の名前があります。入会日は六月二日、退会日は六月十四日。安藤の発症推定日は六月十五日です」
「一日違いか」
「はい。次に、瀬川陽人。慈善水泳イベントの来場者リストを、瀬川の所属クラブ経由で入手しました。リストの中に、灰谷透真の名前がありました。イベント日は七月二十三日。瀬川の発症推定日は七月二十四日です」
真壁の目が、ホワイトボードの赤い線を追っていた。
「宮園春人。通っていた銭湯『富士の湯』の防犯カメラ映像を確認しました。九月十二日午後六時四十三分、灰谷と思われる人物が、宮園と同じ時間帯に入店しています。映像の解像度が低いため断定はできませんが、体格と服装の特徴は一致します。宮園の発症推定日は九月十三日です」
「全部、翌日か」
「はい。接触の翌日に発症しています。三件とも」
氷室は、眼鏡を押し上げた。
「さらに遡りました。灰谷の前職——中堅メーカーの社内で、今年三月から六月にかけて、複数の社員が原因不明の能力低下を訴えています。本郷誠一。田村。新井。全員が灰谷と同じフロアに勤務していました」
真壁は、椅子から立ち上がった。
「同じフロア」
「はい。灰谷が退職したのは七月です。退職後、社内での新たな能力低下の報告はありません。灰谷がいなくなった途端に、被害が止まっています」
ホワイトボードの赤い線が、部屋の中の蛍光灯の光を受けて、薄く光っていた。
真壁は、ホワイトボードの前に歩いて行った。灰谷の写真の前に立った。写真の中の灰谷は、中堅メーカー時代の社員証の写真だった。痩せた顔。光のない目。何者でもない男の顔だった。
「偶然じゃない」
真壁の声は、低かった。
「この男が——灰谷透真が、全ての接点だ」
氷室は何も答えなかった。答えない代わりに、モニターの画面を真壁のほうに向けた。画面には、灰谷の現住所と勤務先と、過去一ヶ月のクレジットカードの使用履歴が表示されていた。
「内偵の準備は完了しています」
「よし。だが、久我山グループは大きい。正面から行けば、弁護団が出てくる。まず、灰谷の行動パターンを把握する。何時にどこにいて、誰と会っているか。尾行は二週間、まず俺が一人で行く」
氷室は頷いた。
「一つ、確認させてください」
「何だ」
「灰谷がやっていることを、法律上、何の罪で立件するつもりですか。握手で才能を奪うという行為は、刑法のどの条文にも該当しません」
真壁は、ホワイトボードの灰谷の写真を見たまま、答えた。
「罪名は後で考える。まず、止めるのが先だ」
氷室の銀縁眼鏡の奥で、分析官の目が、一瞬だけ、真壁の横顔を見た。見た目の中に、いつもの事務的な冷静さとは別の何かが、薄く、浮かんでいた。
◇
翌日、真壁は、灰谷の行動パターンの調査を開始した。
最初の手がかりは、久我山グループの広報ページだった。ページの中に、今週末の新規事業発表会の告知が載っていた。会場は港区のカンファレンスホール。登壇者リストの三番目に、「グループ戦略室長 灰谷透真」の名前があった。
真壁は、発表会のオンライン申込を完了した。一般聴衆枠だった。名前は偽名を使った。
◇
土曜日の午後二時。カンファレンスホールの客席は、七百席のうちの六百席が埋まっていた。
真壁は、最後列の、通路側の席に座っていた。黒いコートは脱いで、グレーのスーツだけだった。手元には、一般聴衆が配られたパンフレットがあった。パンフレットの中に、灰谷透真のプロフィール写真が載っていた。
壇上に、灰谷が現れた。
スポットライトが灰谷の体を照らした。灰谷は、濃紺のスーツに、白いシャツに、シルバーのネクタイピンを付けていた。痩せ型の体格は写真と同じだったが、写真からは伝わらないものがあった。
空気が違った。
灰谷が壇上に立った瞬間に、ホールの中の七百人の視線が、一つの場所に集まった。集まった理由は、灰谷の声でも言葉でもなかった。灰谷の体から出ている、圧力だった。
灰谷がマイクを持った。
「本日は、久我山グループの新規事業戦略についてお話しします」
灰谷の声は、低く、よく通った。声の中に、営業マンの説得力と、アスリートの自信と、棋士の正確さが、同時に鳴っていた。三つの声が、一つの喉から出ていた。
プレゼンテーションのスライドが映し出された。スライドの構成は精密だった。数字の並べ方は、分析官の頭脳で組まれていた。話の展開の緩急は、交渉術と営業トークの融合だった。結論に至るまでの論理の枝分かれは、将棋の読み筋のように、全ての可能性を潰していた。
真壁は、最後列の席で、灰谷の一挙一動を見ていた。
見ながら、手帳に書いた。
『安藤の運動能力。瀬川の自信。宮園の思考力。結城の分析力。本郷の営業トーク。全部が、この男の中にある。この男は、十三人の才能を、身にまとっている』
プレゼンテーションが終わった時、会場から拍手が起きた。拍手は大きかった。七百人の聴衆のほとんどが、灰谷透真という人間に、圧倒されていた。
灰谷は、壇上で、一度だけ頭を下げた。頭を下げた後に、顔を上げた。
顔を上げた灰谷の視線が、客席を流れた。最前列から、中央列へ、後方列へ。
視線が、最後列に届いた。
最後列の、通路側の席に、グレーのスーツの男が座っていた。男の目は、他の聴衆とは違っていた。他の聴衆は拍手をしていた。男は拍手をしていなかった。男の目は、灰谷の顔を、解剖するように見ていた。
灰谷の視線と、真壁の視線が、交差した。
交差の時間は、一秒だった。
一秒の間に、灰谷の右手の、手のひらの中央の器が、ごくかすかに、振動した。振動は、壇上から客席までの距離を超えて、何かに反応したような振動だった。
灰谷は、視線を外した。外した後の灰谷の顔には、何の変化もなかった。変化がないことが、真壁には、逆に不自然に見えた。
真壁は、手帳の最後の行に、一行だけ書いた。
『目が合った。こちらを認識した。この男は、獲物を選ぶ目をしている。しかし、今日は、俺が獲物を選ぶ側だ』
会場の出口に向かう聴衆の流れの中を、真壁は歩いた。黒いコートを腕にかけて、パンフレットを内ポケットにしまった。
ホールの外の空気は、十一月の東京の、冷たい空気だった。
冷たい空気の中を、真壁は、車に向かって歩いた。歩きながら、灰谷の目の光を、もう一度、思い出した。
あの光は、人間の目の光ではなかった。
複数の人間の光が、一つの目の中で、重なっていた。




