包囲網
クリニックの受付で、瀬川陽人と安藤圭吾が、一階の面会室で待っていることを確認した。面会室は、白い壁と、薄いブルーの椅子と、窓から差し込む午後の光で、できていた。
瀬川と安藤は、並んで座っていた。二人の顔には、かつてのアスリートの精悍さの残骸があった。残骸、という言葉が頭に浮かんだことを、真壁は、自分で嫌だと思った。
「瀬川さん、安藤さん。本日はお時間をいただきありがとうございます。警視庁の真壁です」
真壁は、手帳を開いた。開いた手帳の中に、前回の安藤への聞き取りの記録が残っていた。
「前回、安藤さんにお話を伺った際には、ジムの体験入会で来た男の特徴をお聞きしました。今日は、もう少し、具体的なことをお聞きしたいのです」
安藤が頷いた。
「安藤さん。その男の名前を、覚えていますか」
安藤は、少しの間、黙った。黙った後に、口を開いた。
「申込書に、書いてあったはずです。灰谷、だったと思います」
「灰谷」
真壁のペンが、手帳の上で、止まった。止まったペンの先が、紙の上に、インクの点を一つ、残した。
「漢字は」
「灰に、谷、だったかな。正確には覚えてないです。でも、その名前だけは、ずっと頭に残ってました」
真壁は、手帳に「灰谷」の二文字を書いた。書いた文字の横に、日付を書いた。
「瀬川さん。あなたの場合は、慈善イベントで握手した男の名前は」
「名前は知りません。スタッフか、スポンサー関係者を名乗っていました。でも」
瀬川の目が、真壁の手帳の「灰谷」の文字を見た。
「安藤さんから、その名前を聞いています。先日、ここで、二人で会った時に」
真壁は、手帳に書いた。瀬川と安藤が、すでに独自に情報を共有していたことを、真壁は、知らなかった。知らなかったが、驚きはしなかった。被害者同士が繋がることは、自然な流れだった。
「瀬川さん。慈善イベントの来場者リストに、灰谷という名前がないか、確認できますか」
「所属クラブの事務局に問い合わせました。来場者リストのコピーを、取り寄せています。まだ届いていませんが、今週中には届くはずです」
真壁は頷いた。
「もう一つ。握手の時間は、どのくらいでしたか」
「十秒くらいです」
瀬川の声は、自分の記憶を正確に掘り起こそうとしている声だった。
「十秒。長い握手だと思いました。でも、慈善イベントだし、ファンへのサービスの一環だと思って、変だとは思わなかった」
「安藤さんは」
「十五秒くらいです。レッスンの最後に、ありがとうございましたって、握手してきた。手のひらが、冷たかったのを覚えてます」
真壁は、手帳に「冷たい手」と書いた。三人の被害者の証言を並べた。握手。十秒から十五秒。冷たい手。痩せ型。地味な顔。目だけが、光っている。
「お二人とも、ありがとうございました。何かあれば、またご連絡します」
真壁は立ち上がった。立ち上がる時に、瀬川の手のひらの中央の、白い跡が、一瞬だけ見えた。白い跡は、まだ消えていなかった。
◇
面会を終えた後、真壁は車の中から氷室に電話した。
「名前が出た。灰谷。漢字は、灰に谷だ。安藤の証言。瀬川も間接的に確認している」
「灰谷、ですか」
電話の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえた。氷室が、即座にデータベース検索を始めたことを、真壁は音で知った。
「検索します。灰谷の読みは」
「はいたに、だと思う。安藤は読みまでは覚えていなかった」
「了解しました。灰谷で検索をかけます。住民基本台帳、運転免許、社会保険、法人登記。全てのデータベースを横断します」
真壁は、電話を切る前に、もう一つ聞いた。
「宮園はどうだった」
「電話で聞きました。銭湯で、隣にいた男に、肩に触れられたと。特徴は、三十代前半、痩せ型、地味な顔。安藤と瀬川の証言と、完全に一致します」
三人の被害者が、同じ特徴の男と、身体的に接触していた。
三人の被害者が、接触の後に、自分の最も大切な能力を失っていた。
真壁は、ハンドルを握り直した。革手袋の中で、指の腹が、汗ばんでいた。
「氷室。こいつが犯人だ」
「まだ確定ではありません。状況証拠のみです」
「状況証拠のみ、か。お前はいつもそう言う」
「データが嘘をつかないように、私も嘘をつきません」
真壁は、電話を切った。切った後、ハンドルの上で、五秒間、何もしなかった。五秒間の中で、七年前の手帳の記憶が、もう一度、通った。手帳の中の「異常なし」の三文字。病院の白い廊下。自分の大切な人間が、原因不明の何かで壊れていくのを、何もできずに見ているだけだった夜の記憶。
五秒後に、真壁はエンジンをかけた。
◇
特殊対策室に戻ると、氷室のモニターに、検索結果が表示されていた。
画面の中に、顔写真が一枚、あった。
「灰谷透真。三十二歳。住所は港区六本木。現職——」
氷室の声が、一瞬だけ、止まった。止まった理由は、画面の中の情報だった。
「久我山グループ、グループ戦略室長」
「久我山グループ」
真壁の目が、細くなった。
「あの久我山悟のグループか」
「はい。今年に入ってグループ傘下のベンチャー企業に取締役として入社し、半年で戦略室長に昇格しています。経歴を遡ると、以前は中堅メーカーの営業部の平社員でした」
氷室は、眼鏡を押し上げた。
「平社員から、半年で、年商三千億のグループの戦略室長。確率的にありえません」
真壁は、氷室のモニターの画面を見た。画面の中の灰谷透真の顔写真は二枚あった。一枚は、中堅メーカー時代の社員証の写真だった。痩せた、地味な顔。目に光がない。もう一枚は、久我山グループの役員紹介ページの写真だった。同じ顔のはずだった。けれど、目の光が違った。肩の線が違った。顔全体から漂う空気が、別の人間だった。
「この男だ」
真壁の声は、低かった。
「安藤の証言と一致する。瀬川の証言と一致する。宮園の証言と一致する。そして、この経歴の異常さが、全てを説明する」
「ただし」
氷室の声は、いつもと同じ温度だった。
「物的証拠は、ありません。灰谷が何を、どうやって、やっているのかは、不明です。握手で才能を奪うなどという犯罪は、法律のどこにも規定されていません」
「わかっている」
真壁は、モニターの前に立ったまま、灰谷の二枚の写真を、交互に見た。
「内偵を始める。慎重にだ。久我山グループが相手なら、下手に動けば揉み消される」
氷室は頷いた。頷いた氷室の銀縁眼鏡の奥で、分析官の目が、灰谷透真の顔写真を、静かに、記録していた。
特殊対策室の蛍光灯が、一本だけ、薄く、点滅した。
◇
同じ日の夕方、神保町の三畳の事務所で、黒田恭介のスマートフォンが鳴った。
画面には、安藤圭吾の名前が表示されていた。
「黒田さん。警察が来ました」
「警察?」
「警視庁の真壁という刑事です。俺と瀬川さんに会いに来て、灰谷の名前を聞いていきました」
黒田は、受話器を持ち替えた。
「それは、いい知らせだ」
「いい知らせですか」
「警察が動いたということは、俺が書いたブログが間違っていなかったということだ」
安藤の声が、電話の向こうで、少しだけ震えた。
「黒田さん。俺たちは、あの男を見つけられますか」
「見つける。必ず」
電話を切った後、黒田は、デスクの上の「Loss」ノートを開いた。ノートの最新のページに、新しい一行を書いた。
『警視庁・真壁蓮司。被害者から「灰谷」の名前を得た。二本の線が、ここで合流した』
黒田は、ペンの尻で、自分のこめかみを叩いた。二本の線が合流したのなら、ここからは、三本の線で追える。黒田の線。警察の線。そして被害者たちの線。
三本の線の先に、灰谷透真がいた。




