玉座の孤独
久我山グループの人事部長が、俺のデスクの前に立って、辞令の紙を読み上げた。読み上げている人事部長の声が、微かに震えていた。震えの理由は、たぶん、半年前まで別の会社の平社員だった人間にこの辞令を渡すことの異常さを、人事部長自身がいちばんよく知っていたからだった。
「おめでとうございます、灰谷室長」
人事部長は、頭を下げた。頭を下げた人事部長の、左のこめかみに、汗が一筋、光っていた。
「ありがとうございます」
俺は、辞令の紙を受け取った。受け取った紙は、A4サイズの、普通のコピー用紙だった。コピー用紙の中に、俺の名前と、新しい肩書きが、明朝体で印刷されていた。
戦略室長室は、本社ビルの十七階にあった。十六階の役員フロアの一つ上だった。部屋の窓からは、赤坂のビル群の屋上の向こうに、皇居の森が見えた。窓に映った俺の顔は、辞令の紙の上の名前と同じ人間の顔だった。
同じ人間の顔のはずだった。
◇
夜、タワーマンションのリビングに帰った。
リビングのソファに座って、テレビをつけた。画面に、Loss症候群の特集が映った。画面の中で、コメンテーターが「被害者は現在判明しているだけで十三名」と言っていた。十三名の顔写真がパネルに並んでいた。安藤。瀬川。宮園。知らない教授。知らない料理人。知らないピアニスト。
知らない、ということは、嘘だった。
俺は、全員を、知っていた。知っているどころか、彼らの中にあったものが、今、俺の中にあった。
テレビを消した。
消した画面の中に、リビングの室内灯の光と、俺の顔の輪郭が、薄く、映った。映った顔の目の中に、光が二つ、あった。二つの光のうちの一つが、自分のものかどうかを、俺は、確信できなかった。
ベッドに入った。目を閉じた。
閉じた暗闇の中に、いつものように、夢が来た。
夢の中で、少年がサッカーボールを蹴っていた。少年の足の裏に、芝の感触があった。芝の感触は安藤のものだった。安藤の少年時代の記憶の断片だった。
サッカーボールが消えて、プールの水面が現れた。水面の下に潜ると、水が体を包む感覚があった。水が壁ではなく、自分の延長のように感じられた。それは瀬川の記憶だった。
水が消えて、畳の部屋が現れた。畳の上に、将棋盤が置いてあった。盤面の向こうに、老人が座っていた。老人の顔は、穏やかだった。老人の膝の上に、五歳くらいの男の子が座っていた。男の子の手の中に、歩が一枚、握られていた。歩の木の手触りが、指の腹に残っていた。
それは宮園の記憶だった。宮園の祖父の膝の上の、温かさだった。
三つの記憶が、夢の中で、順番に現れて、順番に消えた。消えた後に残ったのは、俺自身の記憶ではなかった。俺自身の記憶は、三つの記憶の下に、沈んでいた。沈んでいる俺の記憶が何だったかを、思い出そうとした。
思い出せなかった。
埼玉のワンルーム。安い蛍光灯。コンビニ弁当の匂い。そこまでは思い出せた。けれど、そこにいた自分が何を感じていたかが、思い出せなかった。感じていたものが、なくなっていた。
三つの記憶が重なった瞬間に、俺の体が、夢の中で、動いた。サッカーボールを蹴る足で水を蹴り、水の中で駒を握った。三つの動作を同時にしようとした体が、引き裂かれるように、痛んだ。
目が覚めた。
覚めた理由は、寝汗だった。シーツが、肩から背中にかけて、冷たく、湿っていた。右手が枕の端を握りしめていた。握りしめた手のひらの中央の器が、暗闇の中で、三つの温度を同時に放っていた。
◇
洗面所に行って、鏡を見た。
鏡の中の俺の顔は、半年前の写真の顔とは、もう、重ならなかった。目の光が違う。肩の角度が違う。表情の切り替わりの速度が違う。表情が多すぎる。一つの顔の中に、五つも六つもの引き出しがある。引き出しの中身は、全部、他人のものだった。
俺は誰だ。
その問いが、頭の中を一瞬だけ、横切った。横切った問いを、別の声が、即座に上書きした。
俺は全てを持つ男だ。
上書きした声は、俺の声だった。俺の声のはずだった。けれど、その声の中に、久我山の低い声の響きと、結城の冷静な口調と、安藤の体幹から出る力強さが、混じっていた。
混じっている声で「全てを持つ男だ」と言うことの意味を、俺は、考えなかった。考えない能力が、俺の中で、もっとも新しく獲得された能力だった。
洗面所を出て、リビングに戻った。
リビングのテーブルの上に置いてあったスマートフォンの画面が、光っていた。着信履歴が一件、表示されていた。
灰谷隆一。
兄の名前だった。
着信の時刻は、午前一時十七分だった。深夜に、兄が電話をかけてきたということだった。
俺は、着信履歴を見た。見た時間は、三秒だった。三秒の間に、兄の声を思い出した。居酒屋で、「大丈夫か」と言った声。穏やかで、面倒見がよくて、透真のことを心配している声。
折り返さなかった。
折り返さない代わりに、スマートフォンを裏返して、テーブルの上に置いた。
置いた後に、一瞬だけ、俺の中の何かが、後ろを向いた。後ろを向いたものの名前は、たぶん、罪悪感だった。罪悪感は一秒で消えた。消えた場所に、何も残らなかった。
ソファに座り直して、ノートパソコンを開いた。
画面に、ニュースサイトのトップページが表示されていた。Loss症候群の記事が、トップに並んでいた。記事の見出しをスクロールした。「原因不明」「調査チーム設置」「被害者支援」。
スクロールの途中で、一つの記事が目に入った。
記事ではなかった。匿名ブログのリンクだった。ニュースサイトの関連記事の欄に、小さく、載っていた。
『Loss症候群——被害者全員に共通する「接触」の謎』
俺の指が、トラックパッドの上で、止まった。
ブログを開いた。
ブログの本文を、最後まで読んだ。読んだ後、俺の背中に、冷たいものが、一筋、走った。
『被害者全員が、発症前に、面識のない人物と身体的な接触をしている』
この一行が、俺の目の中に、刺さった。
誰かが、気づいている。
俺は、ブログのURLをコピーした。コピーしたURLを、メモアプリに貼り付けた。貼り付けた後、ブログの著者名を確認した。著者名は表示されていなかった。匿名だった。
匿名の著者が、どこまで知っているかを、俺の中の結城の分析力が、計算し始めた。計算の結果は、「仮説の段階。名前はまだ出ていない。しかし、接触という共通点に辿り着いている」だった。
結城の分析力が出した結論の横に、安藤の反射神経が、別の信号を送った。逃げろ、という信号だった。
逃げろ、という信号を、宮園の思考力が、即座に却下した。
逃げる必要はない。証拠はない。接触したことを証明する方法は、存在しない。
俺は、ノートパソコンを閉じた。
閉じた画面の中に、リビングの室内灯と、俺の顔が、もう一度、映った。映った顔の中に、灰谷透真の面影は、もう、ほとんど残っていなかった。
残っていない顔を、俺は、見なかった。見ない代わりに、明日の会議の資料のことを考えた。考えた内容は、十八通りの分岐図の十九番目の枝だった。
十九番目の枝が完成した時に、スマートフォンの画面が、もう一度、光った。
兄からの、二度目の着信だった。
俺は、電源ボタンを長押しして、スマートフォンの電源を切った。




