連鎖する喪失
月曜日、国立大学の材料工学の教授が、自分の研究室で、助手に向かって言った。「この数式の意味がわからない」。教授が書いた数式だった。三十年間、世界で五人しか理解できないと言われた理論を構築した頭脳が、自分の数式の意味を忘れていた。
火曜日、銀座の三つ星レストランの料理長が、厨房で、塩の瓶を持ったまま、動けなくなった。塩がどのくらい必要なのかが、舌でわからなくなっていた。二十七年間、味覚だけで料理を組み立ててきた男が、塩の量を計量スプーンで測り始めた。弟子の一人が、厨房の外で泣いた。
水曜日、現代美術の画家が、アトリエで、キャンバスの前に座った。絵筆を持った。持った手が、キャンバスの白い面に触れなかった。色が見えなくなったわけではなかった。色は見えていた。けれど、色の組み合わせから何かが生まれるという感覚が、消えていた。
木曜日、ショパンコンクールの入賞経験を持つピアニストが、自宅のグランドピアノの蓋を閉めた。閉めた蓋の上に、楽譜を置いた。楽譜の音符は読めた。音符を指で弾くこともできた。けれど、音符の列から音楽が立ち上がらなかった。
金曜日、大手IT企業のシステムアーキテクトが、自分のデスクの前で、画面の中のコードを見ていた。コードの文法は理解できた。変数の名前も覚えていた。けれど、百万行のシステムの全体が頭の中で一つの地図として見えるあの感覚が、なくなっていた。
五日間で、五人が、壊れた。
五人の壊れ方は、それぞれ違っていた。けれど、壊れた場所は、全員、同じだった。その人間がその人間であるために最も必要な能力が、消えていた。
◇
テレビのワイドショーは、月曜から金曜まで、毎日、Loss症候群を取り上げた。
パネルの上に、被害者の写真が並んだ。安藤圭吾。瀬川陽人。宮園春人。大学教授。料理長。画家。ピアニスト。プログラマー。その横に、以前から報告されていた本郷、田村、新井の名前も小さく載った。
コメンテーターは、それぞれの専門を持っていた。脳科学者は「前頭前野の機能低下の可能性」と言った。心理学者は「集団ヒステリーの変種」と言った。感染症の専門家は「未知のウイルスの可能性を排除できない」と言った。
全員、間違っていた。
正しい答えを知っている人間は、テレビの中にはいなかった。
ネット上では、陰謀論が拡散していた。「政府の秘密実験」「電磁波兵器」「ストレス社会の限界」「食品添加物」。Xのタイムラインには、Loss症候群に関する投稿が一時間に数万件の速度で流れていた。
国会でも取り上げられた。野党議員が「政府は何をしているのか」と厚労大臣に詰め寄った。厚労大臣は「調査チームを設置し、原因究明に全力を挙げる」と答弁した。調査チームの名簿には、脳科学者と心理学者と感染症専門家の名前が並んでいた。警視庁の名前は、なかった。
◇
警視庁の地下二階の特殊対策室で、氷室奏のモニターの画面に、地図が表示されていた。
地図は、東京二十三区のGISマップだった。マップの上に、赤い円が、複数、重なっていた。
赤い円は、被害者の発症前一週間の行動圏を示していた。各被害者の自宅、勤務先、外出先をプロットし、移動範囲を円で囲んだものだった。
安藤圭吾の行動圏。世田谷から渋谷にかけての円。
瀬川陽人の行動圏。品川から目黒にかけての円。
宮園春人の行動圏。千代田区から文京区にかけての円。
大学教授の行動圏。本郷から白山にかけての円。
料理長の行動圏。銀座から築地にかけての円。
円の大きさは、被害者によって違っていた。けれど、全ての円が、一つの地点を含んでいた。
港区。赤坂から六本木にかけての、三キロ四方の範囲。
氷室は、その範囲を、マウスで囲んだ。囲んだ範囲の中に、赤い円の重なりが、最も密になっている場所があった。
「真壁さん」
氷室の声は、いつもと同じ温度だった。
「全被害者の行動圏を重ねました。発症前一週間の行動ログに、統計的に有意な共通範囲があります」
真壁が、氷室のモニターの後ろに立った。
「どこだ」
「港区。赤坂三丁目から六本木二丁目にかけての範囲です。被害者の七十パーセント以上が、発症前一週間以内に、この範囲を通過または滞在しています」
真壁の目が、モニターの地図の上の、赤い円の重なりを見た。
「偶然か」
「計算しました。七十パーセント以上の被害者が同一の三キロ四方を通過する確率は、東京の人口密度を考慮しても、〇・〇二パーセント以下です」
「偶然じゃないということか」
「偶然ではありません」
氷室は、眼鏡を押し上げた。
「この範囲内に、被害者全員と接触できる人物が、います」
真壁は、モニターから目を上げて、天井の切れた蛍光灯を見た。蛍光灯は、まだ、交換されていなかった。
「接触。やはり、接触か」
「データはそう言っています」
真壁は、コートのポケットの中で、拳を握った。握った拳の中に、七年前の手帳の記憶が、一瞬だけ、通った。
「氷室。この範囲に住んでいる、または通勤している人間で、被害者と接点を持ちうる人物のリストは出せるか」
「条件が広すぎます。港区の就業人口だけで九十万人以上です。もう少し条件を絞る必要があります」
「被害者への聞き取りを急ぐ。特徴が出れば、絞れる」
氷室は、モニターの画面を保存した。保存したファイル名は、「GIS_overlay_v3.png」だった。v3ということは、v1とv2が、すでにあったということだった。氷室は、このデータを、三回、描き直していた。三回目で、ようやく、統計的に有意なパターンが出た。
真壁は、デスクに戻って、自分の手帳を開いた。手帳の最新のページには、安藤の証言が書いてあった。安藤の証言の下に、新しい一行を書いた。
『港区。赤坂-六本木。接触者を特定せよ』
◇
同じ日の夜、神保町の三畳の事務所で、黒田恭介は、ノートパソコンの画面に向かっていた。
画面には、匿名ブログの投稿フォームが開いていた。
黒田は、キーボードの上で、指を止めていた。止めている指の横に、「Loss」と書かれたノートが開いていた。ノートの中の情報を、どこまで公開するかを、黒田は、考えていた。
安藤から聞いた「灰谷」の名前は、出せない。出せば、安藤に迷惑がかかる。
瀬川が教えてくれた「慈善イベント」の情報も、まだ出せない。
出せるのは、仮説だけだった。
黒田は、タイトルを打った。
『Loss症候群——被害者全員に共通する「接触」の謎』
本文を書き始めた。
『被害者に共通する医学的所見はない。脳にも、血液にも、異常はない。しかし、取材を通じて、一つの共通点が浮かび上がった。被害者全員が、発症前に、面識のない人物と身体的な接触をしている。握手。肩への接触。そうした、日常的な身体接触の直後に、能力が失われている』
黒田は、文章を読み返した。読み返して、一行、付け足した。
『この仮説が正しいなら、Loss症候群は病気ではない。犯罪である』
投稿ボタンを押した。
押した後、黒田は、デスクの横の棚に並んでいるファイルの背表紙を見た。過去七年間の取材ファイルだった。ファイルの背表紙には、「政治資金」「薬害」「入管問題」「児童福祉」などの文字が書かれていた。
七年間のうちで、いちばん大きな記事が、今、目の前にあるかもしれなかった。
黒田は、ノートの最後のページを開いた。ページの中央に、「灰谷」の二文字だけが、ボールペンで書かれていた。二文字の横の丸印が、黒田の目を見返していた。
黒田は、ノートを閉じた。閉じたノートの表紙の「Loss」の文字を、左手の人差し指で、一度だけ、叩いた。




