手帳の中の真実
手帳は、大学時代から使っている、A5サイズの方眼ノートだった。表紙に「2025-α」と赤いペンで書いてあった。αは、このノートが通常の業務ノートではないことを意味していた。
テーブルの上には、手帳のほかに、ノートパソコンと、赤いボールペンと、マグカップが一つ、並んでいた。マグカップの中の紅茶は、三十分前に淹れたまま、冷めていた。
朝比奈は、手帳の新しいページを開いた。ページの上半分に、縦の線を一本引いた。線の左側に「灰谷くんの変化」と書き、右側に「報道された事象」と書いた。
左側の最初の行に、日付を書いた。
『三月中旬——灰谷くん、突然プレゼンが上手くなった。本郷さんの口癖が混じっている』
右側に、同じ時期の日付を書いた。
『三月下旬——本郷さん、商談で言葉が出なくなる。経費精算のミスが増える』
左側の二行目。
『六月上旬——灰谷くん、体つきが急に変わった。階段の昇り方が別人。ジムに通い始めたと言っていた時期と重なる』
右側の二行目。
『六月中旬——元Jリーガー安藤圭吾、原因不明の運動能力低下で引退』
朝比奈の赤いペンが、左右の日付を線で結んだ。線は、まっすぐだった。
三行目。
『七月下旬——灰谷くん、慈善イベントに参加したと言っていた。その後、泳ぎ方の話をした。以前は泳ぎの話など一度もしなかった』
右側。
『八月上旬——競泳の瀬川陽人選手、予選落ち。引退会見』
赤い線が、三本目を結んだ。
四行目。
『九月——灰谷くん、将棋の話を急にするようになった。対局の手順を解説しているのを休憩室で聞いた。ルールを知っている程度の人間の話し方ではなかった』
右側。
『十月初旬——天才棋士・宮園春人、対局中に崩壊。Loss症候群と命名される』
四本の赤い線が、手帳の見開きの上で、平行に、並んだ。
朝比奈は、赤いペンを置いた。置いた手が、小さく、震えていた。
震えている手を、もう片方の手で押さえた。押さえた手のひらが、汗で、わずかに湿っていた。
◇
朝比奈は、椅子の背もたれに体を預けて、天井を見た。
天井の蛍光灯が、白い光を、静かに落としていた。
経理の仕事は、数字を見ることだった。数字の中に嘘があれば、見つけることだった。朝比奈がこの十年間で身につけた技術は、数字の嘘を見つける技術だった。
手帳の中の四本の線は、数字ではなかった。けれど、数字と同じ種類の確からしさを持っていた。対称性。灰谷くんが何かを得た時期と、誰かが同じ種類のものを失った時期が、全て、一致していた。
偶然なら、一回は許容できる。二回は疑問。三回は、偶然ではない。四回は——。
朝比奈は、天井から目を戻して、手帳のページを見た。
四回は、確信だった。
けれど、確信と証拠は、違った。
朝比奈は、ノートパソコンを開いた。パソコンの画面に、ニュースサイトのLoss症候群の特集記事が表示されていた。記事の中に、「被害者全員に共通する医学的所見はない」という一文があった。
医学的所見がないなら、何があるのか。
朝比奈は、記事の中の被害者リストを見た。安藤圭吾。瀬川陽人。宮園春人。三人の名前の横に、発症推定時期が書いてあった。発症推定時期を、手帳の日付と照合した。
照合の結果は、すでに知っていた。知っていたのに、もう一度確認した。確認しなければ、自分の手帳の赤い線を信じられなかったからだ。
信じたくなかったのかもしれない。
信じたくなかった理由を、朝比奈は、知っていた。
◇
朝比奈は、手帳を閉じて、ダイニングの椅子に座ったまま、窓の外を見た。
窓の外は、もう暗くなっていた。マンションの駐車場の外灯が、白い光を地面に落としていた。
灰谷透真は、大学時代の同期だった。
大学のゼミで、灰谷はいつもいちばん端の席に座っていた。発言は少なかった。発言する時は、声が小さかった。声が小さいのに、言っていることは、時々、的確だった。的確だったけれど、誰にも聞こえなかったから、なかったことになった。
朝比奈は、それを、隣の席で聞いていた。
聞いていたから、就職先が同じだと知った時、少しだけ嬉しかった。嬉しかったのは、灰谷の声が小さいことが嫌いではなかったからだった。声が小さい人間は、言葉を選んでいる人間だと、朝比奈は、思っていた。
今の灰谷くんの声は、大きい。
大きいだけではない。声の中に、別の人間の声が混じっている。三ヶ月前から、五人ぶんくらいの声が、灰谷くんの喉の奥で、順番に出てきているのを、朝比奈は、聞いていた。
もし、この手帳の赤い線が正しいなら。
灰谷くんは、人の才能を、奪っている。
朝比奈は、その結論を、声に出さなかった。出さない代わりに、冷めた紅茶を一口飲んだ。紅茶は、苦かった。
通報するという選択肢が、朝比奈の頭の中に、浮かんだ。浮かんで、沈んだ。
証拠がなかった。手帳の赤い線は、日付の一致を示しているだけだった。日付の一致は、偶然の範囲と言われれば、それまでだった。経理の人間が「この数字は嘘だ」と言うためには、領収書が必要だった。朝比奈の手帳には、領収書に相当するものがなかった。
そして、もう一つ。
もし間違っていたら。
もし灰谷くんが何もしていなかったら。
朝比奈は、自分が灰谷透真という人間に、取り返しのつかないことをすることになる。
取り返しのつかないことを、朝比奈は、したくなかった。
◇
スマートフォンが鳴った。
画面に、LINEの通知が表示されていた。送信者は、灰谷透真だった。
『久しぶりに飯でも行かない? 来週の水曜、空いてる?』
朝比奈の指が、画面の上で、止まった。
指の先が、冷たかった。
画面の中の灰谷くんのアイコンは、入社式の時の写真だった。スーツが少し大きくて、ネクタイが曲がっていて、笑顔がぎこちない。今の灰谷くんの顔とは、別の人間の顔だった。
朝比奈は、画面を見たまま、三十秒、動かなかった。
三十秒後に、指が動いた。
『うん、いいよ。水曜なら大丈夫』
返信を送った後、朝比奈は、スマートフォンをテーブルの上に伏せた。
伏せた手が、まだ震えていた。
朝比奈は、手帳を持ち上げた。手帳の表紙の「2025-α」の文字を、指でなぞった。なぞった後、手帳の写真を、スマートフォンで撮った。撮った写真を、クラウドストレージにアップロードした。
アップロードが完了した通知を確認してから、手帳を、テーブルの引き出しに入れた。引き出しの鍵を閉めた。鍵を、財布の中のカードケースに挟んだ。
カードケースを閉じる時に、朝比奈の指が、一瞬だけ、止まった。
指が止まった理由を、朝比奈は、自分でわかっていた。
証拠を保全する行動を、経理の人間としてではなく、友人を疑っている人間として、自分が取っていたからだった。
冷めた紅茶の残りを、流しに捨てた。
流しの水の音を聞きながら、朝比奈は、水曜日までの五日間のことを、考えた。五日後に、灰谷くんの顔を見る。顔を見て、目を見て、声を聞く。
その時に、自分は、何を感じるのだろう。
感じたことが手帳の赤い線と矛盾しなかったら。
朝比奈は、水を止めた。
静かになった台所で、冷蔵庫の低い唸りだけが、聞こえていた。




