復讐者たちの邂逅
壁にかかったテレビから、Loss症候群の特集が流れていた。画面の中のキャスターが、「被害者は現在確認されているだけで十二名に上り」と言っているのを、瀬川陽人は、待合室の椅子に座って、聞いていた。
聞いている瀬川の隣の椅子に、安藤圭吾が座っていた。
二人が同じ椅子に並んで座ったのは、初めてだった。
ビデオ通話では、何度も話した。瀬川の手のひらの白さも、安藤の指の震えも、画面越しに見ていた。けれど、隣に座ると、画面越しではわからなかったことが、わかった。
安藤の体は、痩せていた。
元Jリーガーの体が、こんなに薄くなるのかと、瀬川は、思った。思っただけで、口には出さなかった。出さない代わりに、自分の体のことを考えた。自分の体も、たぶん、似たように痩せている。水泳選手の肩の広さは残っているが、肩の中に入っていた筋肉の密度が、変わっていた。
「来てくれて、ありがとうございます」
瀬川が言った。
「いや、こっちこそ」
安藤が答えた。安藤の声は、電話よりも、低かった。
待合室のテレビの音が、二人の間の沈黙を埋めていた。テレビの中のコメンテーターが「専門家の見解を」と言い始めた時に、安藤が口を開いた。
「サッカー教室の子どもたちにさ、先週、手紙もらったんだ」
「手紙」
「うん。十二人のうちの、いちばん小さい子が。あんどう先生がいなくてさみしいって。ひらがなで」
安藤の声が、少しだけ、震えた。
「教えることすらできなくなったんだ。口で説明はできる。でも、体で見せることが、もう。子どもにはさ、体で見せないと伝わらないだろ」
瀬川は、何も言わなかった。言わない代わりに、自分の右手の、手のひらの中央の白い跡を見た。白い跡は、まだ、消えていなかった。
「俺もさ」
瀬川は、自分の手のひらを安藤に見せた。
「ここが、白いんだ。握手の跡だと思う。消えない」
安藤は、瀬川の手のひらを見た。見てから、自分の手のひらを見た。安藤の手のひらには、白い跡はなかった。ジムのロッカールームで、十五秒、手のひら同士で握手をした。しかし安藤の場合は、跡が残らなかった。奪われ方が違うのかもしれない。
「俺は、手のひらじゃなくて、足の裏からだったのかもしれない。わかんないけど」
安藤の声は、不確かだった。不確かなのに、自分の足の裏の感覚が変わったという事実だけは、確かだった。
◇
診察が終わった後、二人は、クリニックの近くの公園のベンチに座った。
ベンチの前に、小さな砂場があった。砂場には、誰もいなかった。
「瀬川さん」
「うん」
「俺、あの男を見つけたい」
安藤の声は、静かだった。静かなのに、中に、硬いものが入っていた。
「黒田さんっていうライターの人に、先日話をした。その人も同じことを考えてるみたいだった。俺は、その人に、名前を言った。灰谷、って」
「灰谷」
「ジムの申込書に書いてあった名前だ。正確かどうかわからないけど」
瀬川の目が、砂場の向こうの何もない空間を見た。
「俺のほうは、名前はわからない。慈善イベントのスタッフか、スポンサー関係者ということだけ。でも、来場者リストには、残ってるはずだ」
「調べられるか」
「所属クラブの事務局に、頼んでみる」
二人の間に、五秒ほどの沈黙があった。
沈黙の中で、瀬川の右手が、自分の太腿の上で、ゆっくり、握られた。握られた拳の中に、二十年間の水の記憶が、まだ残っていた。残っているのに、その記憶を体で再現することが、もうできなかった。
「見つけ出す」
瀬川の声は、低かった。
「見つけ出して、聞くんだ。お前は、俺たちに、何をした」
安藤は頷いた。頷いた顔の中に、元アスリートの目の光が一瞬だけ戻って、すぐに消えた。
◇
同じ日の午後、病院の個室で、宮園春人は、枕元のテレビでLoss症候群の特集を見ていた。
画面の中に、瀬川陽人の引退会見の映像が映った。涙を流す瀬川の顔を見て、宮園は、自分の体の中の何かが反応するのを感じた。
俺と同じだ。
宮園は、ベッドの上に起き上がった。起き上がった体は、一週間前に入院した時よりも、軽くなっていた。軽くなったのは、頭の中から重いものが消えたからだった。
テレビの画面の下にテロップが流れた。『Loss症候群被害者の自助グループ結成の動き』。テロップの中に、安藤圭吾と瀬川陽人の名前が見えた。
宮園は、ベッドの横のテーブルの上に置いてあった自分のスマートフォンを手に取った。
スマートフォンの連絡先には、瀬川の番号はなかった。けれど、所属クラブの事務所の番号は、ネットで検索すれば出てきた。
宮園は、クラブの事務所に電話をかけた。
「瀬川陽人さんの連絡先を教えていただくことは、できますか。宮園春人と申します。将棋棋士の」
事務所の担当者が、少し驚いた声で、瀬川に確認を取ると言った。十分後に、瀬川から直接、宮園の携帯に電話がかかってきた。
「宮園さんですか。瀬川です」
「瀬川さん。突然すみません。僕も、同じです」
宮園の声は、震えていた。
「銭湯で、男に、触れられました」
電話の向こうで、瀬川が、息を呑んだ。
息を呑む音が、電話の回線を通じて、宮園の耳に届いた。




