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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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空の器

「えー、今日の、そう、ですね。えー、今日の、あの、案件、のことなんですが」


 部長がちらりと目を上げた。部下たちが互いに目配せを交わす。本郷はマイクを握ったまま、二秒、三秒、言葉を探した。そのたびに会議室の空気は重くなり、誰も咳払いさえしない静寂が続いた。


 俺は資料に目を落としたまま、頁をめくるふりをしていた。めくる音が、自分の心拍と同じだけ鳴った。


「……以上」


 本郷はそれだけ言って、マイクを置いた。話の中身は、ほとんど何もなかった。


 朝礼が終わって席に戻る途中、隣の村上が小声で呟いた。


「課長、大丈夫かよ。昨日から様子おかしくないか」


「風邪、って言ってましたよ」


 俺は短く返した。声が裏返らなかったのが、自分でも不思議だった。



  ◇



 昼休み、俺は一人で会社を出た。弁当を買うふりをして、近くの公園に足を向けた。昼の陽射しの中で、確かめたいことがあった。


 公園のベンチは、半分ほど埋まっていた。サラリーマンがコンビニのパスタを食べていたり、年配の女性がハトに豆をやっていたり、スーツの男が缶コーヒー片手に電話で怒鳴っていたり。誰もが誰かに注目していない。都合のいい場所だった。


 俺は適当なベンチを選んで腰を下ろした。右隣には、四十代くらいの背広の男が座っていた。くたびれたネクタイ。膝の上に広げたノートには、なにやら図表が細かく書き込まれている。


 俺は深呼吸した。


 ――試してみる。


 いや、試す、なんて綺麗な言葉じゃない。これは実験だ。それもかなり不愉快な類いの。


 俺はサンドイッチの袋を開けるふりをして、わざと膝を滑らせた。袋が男の手の甲に触れる。「あ、すみません」と謝りながら、俺は袋を拾う動きで、指先を男の親指の付け根にほんの少しだけ触れさせた。


 瞬間。


 指先から肘にかけて、ひゅっ、と細い糸が引かれた感覚があった。昨日の本郷のときよりも、遥かに細くて、軽い。お猪口一杯ぶんの熱。それでも、確かに、来た。


 男は気づかなかった。ノートに視線を落としたまま「いえ、全然」と笑って、缶コーヒーをすすった。


 俺はすぐに立ち上がって、公園の反対側のベンチに移動した。



  ◇



 鞄の中からノートを取り出して、広げてみた。


 驚いたことに、俺の頭の中に、他人の脳のメモが残っていた。


 資料の作り方、だ。一枚目に結論、二枚目に三つの論点、三枚目以降でそれぞれの論点を展開する基本構造。折れ線グラフは二軸を使うな、情報量を絞れ、余白を恐れるな、色は三色まで、フォントは二種類まで、箇条書きは七項目で切れ、切れないなら章を分けろ――そういうことが、一つひとつ、「当たり前のこととしてそこにあった」。


 まるで、昔からそうやって資料を作ってきた人間みたいに。


 俺は生まれて一度も、まともな資料を作ったことがない。学生時代のレポートは、常に箇条書きで三十行並べるだけだった。本郷に直されるのも、いつも「情報が多すぎる」「結論がどこか分からん」だった。


 なのに、今は分かる。頭の中に、小さな定規と、小さな編集者がいる。


 俺はノートを閉じて、膝の上に伏せた。陽の光が目に染みた。


 じわり、と胃の底から何かが上がってきた。気持ちの悪い何かと、気持ちのいい何かが、同じ温度で混ざっていた。



  ◇



 ワンルームに帰ってから、俺はしばらく電気をつけなかった。


 街灯の白い光がカーテンの隙間から一筋だけ床に落ちていて、その線の上に、俺はあぐらをかいて座った。スマホをいじる。メモ帳のアプリを開いて、白い画面を見つめた。


 何を書くべきか、何となく分かっていた。


 指が震えていた。


 ――震えの質が、違う。


 昨日、本郷の電話を立ち聞きしたあとの震えは、恐怖だった。今夜のこれは、そうじゃない。脈のリズムが早い。胸の奥のほうが、温かい。これは、もっと危ない種類の震えだ。


「奪えるもの」


 指が文字を打った。


「奪えないもの」


 もう一行、打った。


 そのあと、俺はしばらく画面を見つめたまま、動けなかった。続きの言葉を、自分で書いていいのか、一瞬、迷った。


 老人の声が、頭の中で蘇った。


 ――器が空だからこそ、何でも入る。


 三十二年、俺は「空っぽ」を自分の欠陥だと思ってきた。何も持っていない。何もできない。何にもなれない。だからせめて、誰かの邪魔にはならないように、頭を下げて生きてきた。


 でも、あの老人は言った。空であることが強さだ、と。空であることは、呪いじゃなくて、設計なんだ、と。


 俺はメモアプリの文字を、じっと見つめた。



  ◇



 恐怖、ではなかった。


 画面の青白い光を浴びながら、俺は自分の顔を、部屋の隅の小さな姿見で確認した。目の奥に、光があった。一昨日までの俺にはなかった種類の光だ。自分のその目が、少しだけ、好きだと思えた。それが一番恐ろしいことだった。


 「奪えないもの」の項目に、俺は一行だけ書いた。


 ――朝比奈さん。


 それだけ書いて、画面を閉じた。


 そのあとで、書いてしまったこと自体の意味に、遅れて気づいた。書いたということは、「それ以外のもの」は、全部、候補にしたということだ。


 部屋の中は、まだ暗かった。


 でも、もう眠くはなかった。

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