最初の捕食
前の夜の夢とは何も関係ないはずだった。だのに、俺の指先はやけに饒舌になっていて、触れた金属の温度の中から、さっきまでここを握っていた誰かの体温まで読み取っているような気がした。満員電車の中で、俺の二の腕に押し付けられている中年男のワイシャツ越しの体温が、他人の血流の速さみたいに伝わってくる。
俺は密かに息を止めた。怖くはなかった。むしろ、妙に静かな気持ちだった。
――これは、なんだ?
◇
「灰谷。昨日のファイル、どこに置いた」
本郷は朝から機嫌が悪かった。出勤した俺の肩に、当然のように手を置いてくる。痛いくらいに力を込めて、指が鎖骨の上を掘ってくる。
「あの、部長机の右上、青クリップで」
「そこにねえから聞いてんだよ、俺は!」
どん、と肩を押された。その瞬間――
俺の中に、何かが流れ込んできた。
温かった。甘かった。喉の奥に熱い酒を一口含んだときに似ていて、同時にもっと内側の、脳と背骨の接合部みたいなところが、ぽっと火を灯された。指先がじん、と痺れて、痺れが肘を通って、鎖骨のあたりまで上がってくる。
息が詰まった。
一瞬、視界が白くなった。目の前の本郷の顔が、どこか遠くに見えた。
「……お、おい、灰谷」
本郷が妙な声を出した。手を離している。なぜか、離したあとも、自分の手のひらをじっと見つめている。
「あ、れ。なに……言おうとしてたんだっけ、俺」
ぽかんとした顔だった。部下を詰めている最中の男の顔じゃなかった。本郷はしばらく立ち尽くし、俺の返事を待たずに踵を返して会議室の方へ歩いていった。歩き方まで、どこか、よろよろしていた。
俺はその背中を見送ったまま、動けなかった。自分の掌をそっと開いて見た。皺の奥に、まだ熱が残っていた。
夢じゃ、ない。
◇
午後の電話応対で、俺はそれを試した――というより、試すつもりなど最初はなかった。なかったのに、電話口に出た瞬間、自分の喉から出てきた言葉が、俺の言葉じゃなかった。
「お世話になっております、株式会社東明の灰谷でございます。いつも本郷がご無理を申し上げておりまして。はい、はい、あの件でございますね。実は本郷からもこちらの事情を全てうかがっておりまして――」
水が流れていくように、言葉が出ていた。俺は受話器を握りながら、自分の口が勝手に動くのを、半分外側から聞いていた。そこにあったのは、俺が二年間、毎日聞かされていた本郷の営業トークの、音の高さ、間合い、切り返し、相手に逃げ道を残す一瞬の沈黙――そのすべてだった。
相手が笑った。電話の向こうで、明らかに、軟化していた。
「そこまで言ってくれるなら、まあ、検討しますよ。灰谷さん、あなた、今日、声の調子が違いますね」
「ありがとうございます。風邪気味でして」
「若いうちは、無理しちゃいけませんよ」
俺は礼を言って電話を切った。受話器を置いた指が、かすかに震えていた。
できた。
たった今、自分は「できた」。二年間、一度も取れなかった受注の前段階まで、十分の電話で進めた。あの本郷の声で、あの本郷の間で。
恐怖と快感が同時に押し寄せて、俺は両手で顔を覆った。同僚の誰も、俺を見ていない。誰も、今の電話を特別なものだと思っていない。だからこそ、内側だけで爆発していた。
三十二年、初めての「できた」だった。初めての、誰かに怒られない「できた」だった。
◇
定時、俺はトイレの個室で、鏡の前に立っていた。
自分の顔を、長いこと、見つめていた。
何が変わったわけでもない。目の下のクマも、薄い眉も、頬のこけ具合も、昨日と同じだ。同じなのに、何かが違う気がした。目の奥の、どこかの光が。
鏡の中の俺に向かって、俺はそっと言った。
「お前、だれ」
鏡の向こうの男は、何も答えなかった。
◇
退勤時、廊下を歩いていると、給湯室の前に本郷の背中があった。
携帯を耳に当てていた。俺は咄嗟に柱の陰に隠れた。
「いや、その……だから、あの、なんていうか……。え、なんて言えばいいかな、あの」
本郷の声だった。でも、本郷の声じゃなかった。語尾が全部、空中で溶けていく。言葉を探して、見つけられずに、また別の言葉を探して、それも取り落とす。二十年、この業界の営業を張ってきた男の声じゃなかった。
「……ちょっと、今日、調子悪くて。はい。すみません、後で、また」
本郷は電話を切り、しばらくの間、じっと壁を見つめていた。背中が小さく見えた。いつも会議室じゅうに響いていた男の背中が、今は給湯室の四畳半にすら収まっていた。
俺は柱の陰から動けなかった。
胸の奥で、心臓が一度、大きく跳ねた。罪悪感、とは違う。近いけれど、違う。むしろもっと原始的で、もっと暗い感情だった。
――俺が、やった。
俺が、やった。
鞄を握る手が、汗ばんでいた。
汗ばんだ手のひらが、本郷から流れ込んできた熱を、まだ覚えていた。もう一度、あの熱が欲しい。そう思った自分に、俺は一瞬、息を呑む。
その晩、布団に入ってからも、俺の掌は脈打つように微かに熱を持ち続けていた。
昨日より、少しだけ、長く。




