終電のホーム
本郷はそう言って、分厚いファイルを俺の机に置いた。時計はもう二十時を回っていた。
「あの、これ、本来は村上さんの担当じゃ」
「村上は接待。お前、今日ヒマだろ? じゃ、よろしく」
返事を聞く気もない背中だった。ドアが閉まる音がして、フロアには俺だけが残された。
◇
深夜のオフィスというのは、昼間とはまったく別の生き物だ。
空調の低い唸りが、誰もいない天井を撫でていく。時折、遠くで給湯室の冷蔵庫がジジ、と鳴る。それ以外には、俺のキーボードの音しかない。打鍵音が妙に大きく感じる。自分の指が出している音なのに、まるで別人が打っているみたいに耳に届いた。
誰も読まない報告書だった。正確には、本郷が朝、自分の手柄みたいに部長に出す報告書だ。数字を拾って、グラフにして、文言を磨く。俺の名前はどこにも載らない。残業代すら出ない裁量労働。
「なんで、こんなことやってるんだろうな」
独り言が、無人のフロアに吸い込まれていく。答える人間はいない。問いかけた俺自身ですら、本気で答えを探していない。
ふと、窓の外を見た。新宿方面のビル群の灯りが、いつもより少し滲んで見える。目が疲れている。眼薬も切れていた。
二十三時半、ようやく印刷を終えた。俺は鞄を掴んで飛び出した。
◇
駅に着いたとき、ホームの電光掲示板には「終電発車済み」の赤い文字が浮かんでいた。
五分。たった五分の差だった。
「……ああ」
声にならない息が漏れた。次の始発まで四時間以上ある。タクシーで帰れば一万以上かかる。漫画喫茶でも、カプセルホテルでも、なんでもよかったのに、俺は動けなかった。ベンチに腰を下ろして、ただ、線路の向こうの暗がりを眺めていた。
ホームには俺しかいない――そう思っていた。
「若いの。座ってもよろしいかね」
振り向いたとき、もうその老人は俺の隣に座っていた。
いつからいたのか、気配はまったくなかった。痩せた体躯。古びた黒いコート。帽子の下から見える髪は白く、目だけが妙に澄んでいた。若い男の目だった。
「あ、どうぞ」
俺は反射的に身を引いた。終電を逃した夜の駅で、こんな老人と二人きりというのは、普通なら怖がるところだろう。でも、なぜか怖くなかった。怖いよりも先に、ただ、不思議だった。
「嫌な顔をしとるな」と老人は言った。
「え」
「お前さんの顔じゃ。死に損なった犬みたいな顔じゃ」
はっきり言ってくれるもんだと思った。腹も立たなかった。事実だったからだ。
「……すみません」
「謝るな。謝り癖のついた人間は、何度謝っても足りん。わしは嫌いじゃないぞ、そういう顔は」
「なんで、ですか」
「空っぽだからじゃ」
老人は前を見ていた。俺の顔を覗き込むこともしない。ただ、誰もいない線路の暗闇に向かって、独りごとのように続けた。
「人間はな、持ってるやつほど損をする。持ってるものを守ろうとして、守ることに全部使ってしまう。何も持たん人間は、そこが違う。器が空だからこそ、何でも入る。――お前さん、それが分かるか」
「分かりません」
「そうか。分からんか」
老人は笑った。ゆっくりした、乾いた笑いだった。
「じゃあ、教えてやろう」
老人の右手が、ゆるりと持ち上がった。皺だらけの、骨ばった手だった。その手のひらが、俺の手の甲に、ひたりと触れた。
◇
瞬間、体の中を何かが貫いた。
電気ではなかった。熱でもなかった。強いて言うなら、深い井戸の底から冷たい水が一気に吸い上げられる、そんな感覚。背骨の芯、頭の奥、指の先、そのすべてを同時に通過していった。
息が止まった。目の前が白くなった。次に気がついたとき、俺はベンチから転げ落ちそうな前傾姿勢のまま、冷たい手すりを掴んでいた。
老人の姿は、もうなかった。
「……え?」
ホームを見渡した。端から端まで。誰もいない。監視カメラの赤い光だけが、遠くで静かに点滅している。風が来た。頬に当たった風が、妙に鮮明に「風だ」と分かった。
夢だ、と俺は思うことにした。疲れすぎて、居眠りして、夢を見ていた。そう思わないと、立ち上がれなかった。
◇
始発で帰る気力もなく、俺は結局、歩いて帰った。三時間かかった。
帰り道、不思議なことがいくつかあった。
自動販売機の光が、やけに鮮明に見えた。いつもなら読みもしない商品名のラベル、その小さな注意書きの文字まで、歩きながら一文字ずつ読めた。コンビニの看板の油汚れが、何時ごろついたものなのか分かる気がした。横断歩道の向こうで信号待ちをしている男の、革靴のかかとの擦れ具合まで目に入ってくる。
これは疲れているんじゃない。逆だ。起きすぎている。
アパートに辿り着いたとき、東の空がうっすら白み始めていた。鍵を回し、靴を脱ぎ、電気もつけずに布団に倒れ込む。天井の染みが、昨日よりはっきり見えた。犬に似ている右上の染み――あれ、尻尾の先が、昨日より少し長かったか?
目を閉じながら、俺は自分の掌を胸の上に置いた。
脈打つように、微かに、熱かった。
心臓の鼓動とはずれた、別のリズムで。




