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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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灰色の月曜日

 それが俺の朝の最初の感触だった。誰のものでもない汗が、誰のものでもない体温に押されて、俺の皮膚を濡らす。満員電車の中では、人はもう人間ではない。ただの湿った肉塊だ。


 俺は目を閉じる。扉のガラスに額を押し当て、三十二年ぶんの諦めを一度に吐き出すような浅い息をつく。つり革にぶら下がる指先に、前の男のワイシャツの背中の匂いが絡みついてくる。整髪料と柔軟剤と、加齢臭。他人の生活が、俺の鼻の中で勝手に発酵していた。


「次は――新橋、新橋」


 車内アナウンスだけが、妙にはっきりと聞こえる。他はみんな、俺の耳の中では一律の雑音になっていた。



  ◇



「灰谷。お前、今月も一件か」


 朝礼が終わったあとの会議室で、本郷課長は俺のデスクの上に営業成績の表を叩きつけた。パンッ、という乾いた音に、左右の席の同僚がキーボードを打つ指を一瞬止める。誰も顔を上げない。上げないことが、この部署の生存戦略だった。


「すみません」


「すみませんじゃない。何度言ったら分かる? お前が一件取るのに、村上は七件取ってるんだぞ。村上は来月から主任だ。お前、二年後輩だぞ、村上は」


「……すみません」


「ほんと、お前はいつまで経っても使えねえな」


 本郷の声が、会議室の壁に反響する。一度、二度、三度。そのたびに、俺の肋骨の内側にだけ残響が溜まっていく。キーボードを打つ音だけが遠くで鳴り続け、同僚たちの沈黙は、俺を責めているのか、本郷を恐れているのか、もうどちらでもよかった。


 俺はファイルを胸に抱えたまま、ただ、頷いた。頷くしかなかった。頷ける社員でいることが、俺の唯一の営業成績だった。



  ◇



 昼の食堂で、朝比奈沙月は日替わり定食のトレイを持って俺の向かいに座った。


「灰谷くん、今日もひどいね」


「……まあ、いつものことだから」


「いつものことにしないでよ」


 朝比奈は味噌汁の椀を両手で包むように持った。丸眼鏡の奥の目が、俺の手元のコロッケ定食をちらりと見る。いつもと同じメニュー、いつもと同じ位置。俺は何一つ変えない人間だった。変える勇気がないから。


「ねえ」と彼女は言った。「私、経理部だから数字見てるけど、灰谷くんって別に、仕事できないわけじゃないと思うよ」


「気を遣わなくていいよ」


「気を遣ってない。本郷さんの怒鳴り方がおかしいだけ。前、あれで辞めた人いるし」


 俺は味噌汁をすすった。安い味噌と、少しだけ入ってる豆腐。舌の上で、温度だけが優しい。


「灰谷くんはさ」と朝比奈は続けた。「ただ、言い返さないだけだよ」


「言い返して、何か変わる?」


「変わらないかもね」


 彼女はあっさりと認めた。そこが朝比奈の好きなところだった。嘘で慰めない。ただ、同じ方向を向いて座っていてくれる。


 俺たちはしばらく黙って味噌汁を飲んだ。食堂のテレビで、野球の再放送が流れていた。誰も見ていないのに、ずっと流れていた。



  ◇



 帰り道、鞄の中でスマホが震えた。母からだった。画面を見た瞬間、コンビニの前で足が止まる。着信音は五回鳴って、六回目で俺は出た。


「もしもし」


「あ、透真? 今いい?」


「まあ」


「隆一ね、また昇進だって。今度、部長なんだって。三十五で。やっぱりあの子はすごいわねえ」


「そう」


「あんたは、元気にしてる?」


「うん」


「ちゃんとご飯食べてる?」


「食べてる」


「そう。……それだけなんだけど。お父さんにも言っといてって、隆一が」


 母の声の後ろで、実家の台所の換気扇の音がしていた。懐かしくも何ともない音だった。俺は適当に相槌を打って、電話を切った。


 コンビニの明かりが、馬鹿みたいに白かった。



  ◇



 ワンルームの部屋に戻って、電気もつけずに布団に倒れ込んだ。


 天井に染みがある。雨漏りの跡。入居したときからずっと同じ形をしている。右上のやつは犬に似ていて、真ん中のは、何にも似ていない。ただの薄茶色の汚れだ。


 俺はそれを数える癖があった。一つ、二つ、三つ。蛍光灯のカバーの中で、虫の死骸がいくつか黒い点になって透けていた。点滅の間隔が、以前より少しだけ長くなっている気がする。近いうちに切れるんだろう。電球を買いに行くことすら、面倒くさかった。


 兄さんは三十五で部長になった。俺は三十二で、万年平社員で、本郷に怒鳴られて、朝比奈にだけ心配されて、安い味噌汁を美味しいと思っている。


 そういう人間だ。


 そういう人間が、この天井を見上げて、何十年生きていくんだろう。


 目を閉じる直前、窓の外をトラックが通った。壁がわずかに震え、染みの犬の輪郭が揺れた気がした。気のせいだった。


 明日も、同じ朝が来る。同じ電車で、同じ汗に濡れて、同じ声で怒鳴られる。それでいい。それだけで、もう充分――のはずだった。


 目を閉じながら、俺は思う。こんな日が、昨日と同じ日が、死ぬまで続くんだろう、と。


 その夜が、自分の人生で最後の「普通の夜」になるとは、まだ知らずに。

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