ルポライターの嗅覚
テーブルの上に、ブレンドコーヒーが一杯と、ノートが一冊と、ボールペンが一本、並んでいた。ノートの表紙には「Loss」と書かれていた。
約束の時間の五分前に、安藤圭吾が来た。
安藤は、入口で黒田を見つけて、ゆっくり歩いてきた。ファミレスの明るい蛍光灯の下で、安藤の顔色は、良くなかった。
「安藤さんですね。黒田です。今日はお時間いただいて、ありがとうございます」
「いえ」
安藤は、向かいの席に座った。座る動作が、元アスリートの動作とは思えないほど、緩慢だった。
黒田は、コーヒーを一口飲んで、ノートを開いた。
「安藤さん、最初にお断りしておきますが、今日の話は、ご本人の了承なく記事にすることはありません。匿名でも、実名でも」
「わかりました」
安藤の右手が、テーブルの上に置かれていた。右手は、コーヒーカップを持とうとして、カップの取っ手にかけた指が、少し、震えた。震えは一秒で止まった。止まったあと、安藤は、カップから手を離した。
「安藤さん。能力が変わる直前に、何か、普段と違うことはありましたか」
安藤は、少しの間、黙った。
「ジムに、体験入会で来た男がいました。個人レッスンを三回して、最後に握手しました。握手の後から、全部が変わりました」
「握手、ですか」
「はい。十五秒くらいの、長い握手でした」
黒田のペンが、ノートの上を走った。走りながら、黒田は、先週の瀬川への電話取材を思い出していた。瀬川も、握手、と言っていた。慈善イベントの握手会で、十秒、と。
「その男の特徴を覚えていますか」
「三十代前半。痩せてて、地味な感じ。営業マンっぽい。名前は、申込書に書いてあったはずです。灰谷、だったかな。正確な字は覚えてません」
黒田のペンが、止まった。
「灰谷」
「たぶん。漢字までは」
黒田は、ノートの余白に、「灰谷」の二文字を書いた。二文字の横に、小さく、丸を付けた。
◇
安藤が帰った後、黒田は、瀬川陽人に電話をかけた。
「瀬川さん、先ほど安藤さんにお話を伺いました。ひとつ確認させてください。握手をした男の名前に、心当たりはありますか」
「名前は知りません。慈善イベントのスタッフか、スポンサー関係者を名乗っていました」
「安藤さんは、ジムの申込書に、灰谷、という名前が書いてあったかもしれないとおっしゃっています」
電話の向こうで、瀬川の呼吸が、半拍、止まった。
「灰谷」
「はい。灰谷、です」
「慈善イベントの来場者リストに、その名前がないか、確認できますか」
「それは、私のほうでは難しいです。でも、所属クラブの事務局に問い合わせることはできるかもしれません」
電話を切った後、黒田は、ファミレスのテーブルの上で、ノートの新しいページを開いた。
ページの上半分に、時系列を書いた。安藤の発症日。瀬川の発症日。宮園の発症日。
ページの下半分に、三人の証言を並べた。
「握手した」。
「十五秒/十秒の長い握手」。
「三十代前半、痩せ型、地味」。
三つの証言が、一本の線で、繋がった。
黒田は、ペンの尻で、自分のこめかみを、叩いた。
二人の被害者が、発症の直前に、同じ特徴の男と握手していた。
偶然か。
黒田は、フリーランスのルポライターを七年やってきた。七年間で学んだことの中で、いちばん大きなものは、偶然は二回まで、三回目は必然、ということだった。
宮園春人にも、発症前に、似た経験がなかったか。
黒田は、スマートフォンを取り出して、「宮園春人 取材」で検索した。直接の連絡先は出てこなかった。入院先の病院名も報道されていなかった。
黒田は、ノートの余白に、もう一行、書いた。
『でも、この二人に共通する「接触した相手」が同一人物だったら』
書いたあと、黒田は、ファミレスの窓の外を見た。日曜の午後の駐車場に、子ども連れの家族が一組、歩いていた。
黒田は、安藤と瀬川に、改めて電話をかけることを決めた。今度は「その人物の特徴をもっと詳しく覚えていないか」と。
◇
同じ日の午後、警視庁の地下二階の特殊対策室で、氷室奏のモニターの画面に、新しいデータが表示されていた。
被害者の行動ログの重ね合わせだった。
安藤の行動ログ。スポーツジムの体験入会記録。入会日、退会日。
瀬川の行動ログ。慈善水泳イベントの来場者リスト。
宮園の行動ログ。将棋記念対局イベントの来場者リスト。銭湯「富士の湯」の防犯カメラ映像。
氷室は、三つのログを、時系列で重ねた。重ねた画面の上に、赤い点が、三つ、並んだ。三つの赤い点は、それぞれ別の場所で、別の日に、打たれていた。
けれど、三つの点の間に、共通する要素があった。
接触、という行為だった。
氷室は、画面から目を上げて、隣のデスクの真壁を見た。
「真壁さん」
「何だ」
「被害者全員の発症前一週間の行動ログを重ねると、それぞれ別の場所で、別の人物と接触しています。場所も日時もバラバラです。しかし」
氷室は、眼鏡を押し上げた。
「接触という行為そのものが、共通しています。より正確に言えば、身体的な接触です。握手、肩への接触、その種の」
「接触で才能が奪われる? SFじゃあるまいし」
真壁は、苦笑した。苦笑したが、否定はしなかった。
「SFかどうかは、データには関係ありません。データは嘘をつきません。人間と違って」
氷室の声は、いつもと同じ温度だった。
真壁は、デスクの上のコーヒーカップを手に取った。カップの中身は、もう、冷めていた。
冷めたコーヒーを飲み干して、真壁は、氷室のモニターの画面をもう一度見た。
赤い三つの点。別々の場所、別々の日時、別々の被害者。
しかし、三つの点の向こう側に、同じ手が、あった。
その手の持ち主の名前を、まだ、真壁たちは知らなかった。
黒田恭介のノートの中には、すでに、「灰谷」の二文字が書かれていた。
二つの捜査は、まだ、合流していなかった。
合流していない二本の線が、同じ場所に向かって、まっすぐ伸びていた。
特殊対策室の蛍光灯が、一本だけ、薄く、点滅した。




