空白の棋士
午後の光は、入ってこなかった。入ってこない光の代わりに、廊下の蛍光灯の白さが、ドアの下の隙間から、細く、伸びていた。
宮園春人は、ベッドの上に、半身を起こして、座っていた。
膝の上に、将棋盤が、置かれていた。
盤面には、駒が、初期配置で並んでいた。看護師が、宮園の希望で持ってきたものだった。
宮園は、盤面の上の、歩の列を、見ていた。
九つの歩が、三段目に、並んでいた。九つの歩の並び方は、いつもと同じだった。同じなのに、その九つの歩の先に、何も、見えなかった。
宮園の右手が、玉を持ち上げた。
持ち上げた玉は、木の塊だった。
木の塊の表面に、「玉」の文字が、彫られていた。文字の彫りの深さを、指の腹が感じた。感じたけれど、その駒が盤面のどこに行くべきかという情報が、指の中から、消えていた。
宮園は、玉を、元の場所に、戻した。
戻した手を、自分の膝の上に、置いた。
置いた手を、しばらく、見ていた。
◇
午後三時に、高柳九段が見舞いに来た。
高柳は、ドアを開けて、中に入る前に、一瞬、止まった。止まったのは、宮園の目を見たからだった。宮園の目は、病室の窓の方を見ていたが、窓の外を見ていたわけではなかった。何も見ていなかった。
高柳は、ベッドの横の椅子に、ゆっくり、座った。
「春人」
高柳の声は、低かった。七十年分の、しわがれた低さだった。
「先生」
宮園の声は、高柳の声よりも、もっと低かった。二十一歳の声が、七十歳の声よりも低いということが、この部屋の中では、自然だった。
「先生。僕は、将棋がなければ、何者でもありません」
宮園は、膝の上の将棋盤を見た。
「五歳の時に、おじいちゃんに教えてもらいました。おじいちゃんは、アマの三段でした。強くはなかった。でも、駒を持つ手が、温かかった。僕が将棋を好きになったのは、おじいちゃんの手の温かさのほうが先で、将棋の面白さのほうが後でした」
高柳は、何も言わなかった。
「その手の温度が、まだ、ここに」
宮園は、自分の右手を持ち上げた。
「ここに、残ってるはずなんです。残ってるのに、将棋だけが、見えない。見えないのに、温度だけが、残っている。先生、これは、どういうことなんですか」
高柳は、しばらく、黙っていた。黙っている間に、高柳の右手が、自分の膝の上で、小さく、震えた。震えを、高柳は、左手で、止めた。
「春人」
「はい」
「お前は、将棋がなくても、高柳の弟子だ」
宮園の目から、涙が、ひとつ、頬を伝った。
「ありがとうございます。でも」
宮園は、自分の涙を拭かなかった。
「でも先生、それは、嘘です」
高柳の手の震えが、一瞬だけ、止まった。
「僕は、将棋がなくなったら、何もない人間です。おじいちゃんの手の温度は、僕の中に、残ってます。でも、その温度の行き場が、もう、どこにもない」
高柳は、立ち上がった。立ち上がる動作が、七十年分のぜんぶの体重を持ち上げる動作だった。
高柳は、宮園の右手を、両手で、包んだ。包んだ手の温度が、宮園の指先に伝わった。
伝わった温度は、祖父の手の温度とは、違った。違ったけれど、同じ場所に、届こうとしていた。
宮園は、高柳の手の中で、五歳に戻った自分の指を、ゆっくり、閉じた。
閉じた指の中に、駒を持つ形が、まだ残っていた。残っているのに、その形の先に何があるのかが、もう見えなかった。
高柳が帰ったあとの病室に、将棋盤だけが残された。盤面の駒は、初期配置のまま、誰にも動かされなかった。
病室のテレビが、つけっぱなしになっていた。夕方のワイドショーの音声が、低い音量で、流れていた。画面の中で、コメンテーターが「Loss症候群の被害者は、現在判明しているだけで少なくとも八名」と言った。八名の中に、自分が入っていることを、宮園は知っていた。
◇
同じ日の夕方のワイドショーでは、Loss症候群の特集が、三十分間にわたって放送された。
宮園の対局中断の映像が繰り返し使われ、パネルには安藤と瀬川の写真が並んだ。コメンテーターが「音楽家の方からも、突然演奏ができなくなったという相談が来ている」と報告し、パネルに新しい写真が追加された。
田村、という名前が、一瞬だけ画面を横切った。田村、という名前の横に、「中堅メーカー営業部、突然商談の言葉が出なくなった」と、小さな字で書かれていた。
新井、という名前も、別のパネルの端に、載っていた。「事務処理能力の急激な低下、原因不明」。
二人の名前は、大物アスリートや棋士の名前の陰に隠れて、ほとんど誰にも注目されなかった。されなかったが、Loss症候群という枠組みの中に、ぜんぶ、入った。
灰谷透真のオフィスの壁にかかったテレビでも、同じワイドショーが流れていた。灰谷は、宮園の崩壊のニュースを横目で見ながら、ノートパソコンの画面の上で、久我山グループの三期先の事業計画の枝分かれ図を、もう一段、深く、描き足していた。描き足した枝の先の数字の精度は、一週間前の灰谷には、出せなかった精度だった。
テレビのコメンテーターが「原因究明が急務」と言った。灰谷の指は、キーボードの上で、止まらなかった。
◇
夜の十一時過ぎに、宮園は、一人で、病室のベッドに横たわっていた。
窓の外は、暗かった。暗い窓のガラスの中に、宮園自身の顔が、薄く、映っていた。
映った顔を見ながら、宮園は、あの日のことを、思い出していた。
あの日。銭湯。富士の湯。
脱衣所で、隣の男が、ジャケットを取る時に、肩に触れた。
触れた瞬間に、ほんの一瞬だけ、頭の中で何かが動いた。動いた感覚を、のぼせだと思った。
のぼせだったのだろうか。
宮園は、窓のガラスの中の自分の顔を見ながら、その問いを、もう一度、頭の中で、回した。回そうとした。
回せなかった。回す力が、もう、なかった。
けれど、回せないままの頭の中に、あの男の顔だけは、残っていた。三十代前半。痩せ型。地味な顔。目の中に、別の人間がいるような光。
宮園は、枕の横に置いたナースコールのボタンに、指を伸ばしかけた。伸ばしかけた指を、途中で、止めた。
代わりに、暗い窓の中の自分の顔に向かって、声にならない声で、ひとつだけ、呟いた。
あの男に、触られてから。
呟いたあとの部屋の中に、看護師の足音が、廊下を通り過ぎた。




