特殊対策室
正確には、地下二階の、突き当たりの左側の、元は倉庫だった部屋に、三つのデスクと、ホワイトボード二枚と、旧式のプリンターが一台、押し込まれていた。蛍光灯は二本あるうちの一本が切れていて、交換を総務に依頼してから二週間が経っていた。
真壁蓮司は、その部屋の、いちばん奥のデスクに座っていた。
デスクの上に、被害者の名前と発症時期を書き出した紙が、七枚、広がっていた。紙の間に、コンビニのコーヒーのカップが、二つ、置かれていた。一つは今朝のもの、もう一つは昨日の残りだった。
対面のデスクに、氷室奏が座っていた。銀縁の眼鏡の奥の目が、ノートパソコンの画面を見ていた。画面には、時系列チャートが表示されていた。横軸は日付、縦軸は被害者の名前。赤い点が、発症推定日を示していた。
◇
真壁は、椅子の背もたれに体を預けて、天井の蛍光灯の切れているほうを見た。
「上は、まだ渋ってるのか」
「渋っているというよりは、関心がないようです」
氷室の声は、事務的だった。感情の色がほとんどない声だった。
「刑事部長の返答は、『病気か心因性の問題として厚労省に任せるべき案件ではないか』でした」
「病気ね」
真壁は、自分の膝の上に置いた右手の指を、一本ずつ折った。
「安藤圭吾。元Jリーガー。ある日突然、ボールが蹴れなくなった。医学的異常なし。瀬川陽人。競泳の日本代表候補。水が壁になった。医学的異常なし。宮園春人。七冠目前の天才棋士。三手詰めが解けなくなった。医学的異常なし」
真壁は、折った指を三本、開いた。
「これが病気なら、三つの病気が偶然同じ半年間に起きたことになる。氷室、確率はどのくらいだ」
「計算しました」
氷室が、画面から目を上げた。
「各分野でのトップ選手の原因不明の能力喪失の年間発生率を、過去二十年の統計から推定すると、三件が半年以内に発生する確率は、〇・〇〇四パーセント以下です。有意水準五パーセントで棄却されます」
「つまり」
「偶然とは言えません」
真壁は、椅子を前に倒して、デスクの上の紙を見た。
「これは自然現象じゃない。誰かが、やっている」
氷室は何も答えなかった。答えない代わりに、ノートパソコンの画面を真壁のほうに向けた。時系列チャートの赤い点の下に、新しい行が追加されていた。
『各被害者の発症前一週間の行動ログ——重複チェック進行中』
真壁は、その行を読んだ。読んだあと、自分のデスクの引き出しの奥にある、古い手帳を、一瞬だけ、思い出した。手帳には、七年前の日付と、病院の名前と、「異常なし」の三文字が書いてあった。
七年前の手帳のことを、真壁は、氷室には話していなかった。誰にも話していなかった。
「真壁さん」
氷室の声で、真壁は手帳の記憶を閉じた。
「上に掛け合うのは、もう少しデータが揃ってからのほうが効率的です。今日のところは、まず被害者に直接話を聞きませんか」
「そうだな。安藤圭吾から当たろう」
真壁は、コートをデスクの横のフックから取った。黒の、長いコートだった。コートの裏地の縫い目に、自分の名前が書いてあるのは、七年前の手帳と同じ頃からの癖だった。
◇
午後三時に、真壁は車で移動した。
安藤圭吾の自宅マンションは、世田谷区の、駅から徒歩十二分の、五階建ての古いマンションの三階だった。
インターホンを押した。応答は十五秒ほどかかった。
「……はい」
「警視庁の真壁と申します。安藤圭吾さんですか。少しお話を伺いたいのですが」
ドアが開くまでに、さらに二十秒かかった。
開いたドアの向こうに立っていた安藤は、テレビで見た安藤圭吾とは、別人だった。
Tシャツの首元が伸びていた。顔に、髭が、三日ぶんほど残っていた。目の下に、クマがあった。部屋の中から、閉め切った窓の、淀んだ空気の匂いが、廊下まで漏れていた。
安藤は、真壁を部屋に入れた。
リビングのテーブルの上に、カップ麺の容器が二つ、洗われていない皿が三枚、コンビニの袋が一つ、重なっていた。テレビは消えていた。カーテンは半分閉まっていた。
安藤は、ソファに座った。真壁は、テーブルを挟んだ向かいの椅子に座った。
「安藤さん。体調のことで、お話を聞かせてください」
「体調は、悪くないです。体は、健康です。ただ」
安藤の声が、止まった。
「ただ、体の使い方が、わからなくなりました。ある日突然。一日の中で最初にそれに気づいたのは、朝の、布団から起き上がる動作でした。起き上がる時に、体が、自分の体じゃないみたいに、重かった。重いんじゃなくて、どこに力を入れればいいのか、わからなかった」
真壁は、手帳に書いた。書きながら、安藤の目を見ていた。
安藤の目の中に、かつてのアスリートの目の光は、残っていなかった。残っていない目の奥の、さらに奥に、ある種の怒りが、薄く、沈んでいた。
「安藤さん。発症の直前に、誰かと会いましたか。普段会わない人物と、接触したことはありませんか」
安藤の視線が、ふと、テーブルの端に移った。
「ジムの体験入会で来た男がいました。三回、個人レッスンをしました。最後に、握手をしました。十五秒くらいの、長い握手でした」
「その男の特徴を覚えていますか」
「三十代前半くらい。痩せてる。地味な顔。目だけが、ちょっと、変でした」
「変、というのは」
「光ってるというか。あの目だけは、覚えてます」
安藤の声が、少し、低くなった。
「あの握手の後に、全部が変わったんです。最初は疲れだと思いました。でも、翌日の朝に、リフティングをしようとしたら、ボールの真ん中を捉えられなかった。二十三年間、毎日やってきたリフティングが、できなくなってた」
安藤は、自分の手を見た。
「子どもたちのサッカー教室も、休止しました。教えることすらできなくなった。口で説明はできるんです。でも、体で見せることが、もう」
安藤の声が途切れた。途切れたまま、五秒ほどの沈黙があった。
真壁は、その五秒間に、安藤の部屋の壁にかかっている一枚の写真を見ていた。ユニフォームを着た安藤が、ゴール前でガッツポーズをしている写真だった。写真の中の安藤の目は、光っていた。今の安藤の目とは、別の人間の目だった。
真壁の手帳のペンが、安藤の証言を書き終えた。
書き終えたあと、真壁は、安藤のマンションのリビングの、閉め切ったカーテンの隙間から漏れる午後の光を、見た。光は細く、テーブルの上のカップ麺の容器の端に、薄く、当たっていた。
◇
車の中で、真壁は氷室に電話した。
「全員の発症前後の行動を洗ってくれ。特に、発症前一週間の、対人接触の記録を」
「了解しました。一つ、気になるデータがあります」
「何だ」
「安藤圭吾と瀬川陽人が、発症後に、同じスポーツクリニックを受診しています。品川のアスリート・スポーツクリニックです。ということは、発症後ではなく、発症前に、別の共通点があるはずです」
電話越しの氷室の声は、いつもと同じ温度だった。
真壁は、ハンドルを握り直した。握り直した革手袋の中で、指の腹が、ほんの少しだけ、汗ばんでいた。




