Loss症候群
『史上最年少七冠挑戦中の天才棋士・宮園春人、対局中に異常行動 救急搬送』
速報のテロップは、テレビの画面の下端を、三回、横切った。
翌日のワイドショーは、朝から、宮園の話題で持ちきりだった。
◇
テレビ局のスタジオの、大きなモニターの前に、四人のコメンテーターが座っていた。
司会者が、モニターに映された宮園のプロフィール写真を指して、言った。
「さて、宮園春人さんですが、七冠達成目前だった天才棋士が、対局中に駒を落とし、反則に至るという異常事態でした。脳のMRI検査では、異常なし。一体何が起きたのか」
コメンテーターの一人、スポーツ紙の元記者が、手元の資料を見ながら言った。
「これ、宮園さんだけの話じゃないんです。ここ半年で、同じような事例が何件も報告されてましてね。競泳の瀬川陽人選手の引退、元Jリーガーの安藤圭吾さんの体調不良。分野は違えど、突然、それまでの能力を失うという点では、共通してるんです」
モニターに、瀬川の引退会見の映像と、安藤がサッカー教室を休止した記事が並んだ。
別のコメンテーターが口を挟んだ。
「でもね、スポーツ選手のスランプと、将棋の棋士の不調は、全然違うものでしょう」
「いや、医学的に説明がつかないという点が同じなんです。脳にも体にも異常がない。なのに、能力だけが消えている」
司会者が、カメラに向き直った。
「実は番組にも、視聴者の方から、似たような体験をされた方のメッセージが寄せられています。大学教授の方、料理人の方、ピアニストの方。いずれも原因不明で、それまでの能力が突然失われたと」
スタジオの空気が、変わった。
コメンテーターの最年長、医療ジャーナリストの女性が、モニターを見ながら言った。
「これは、もし本当に複数の分野で同じことが起きているなら、個人の問題ではなく、社会現象として捉えるべきです。いわば『Loss症候群』とでも呼ぶべき」
Loss症候群。
その四文字が、初めてテレビの電波に乗った瞬間を、日本中の何百万人が、同時に、聞いた。
テロップが、画面の下端に流れた。『Loss症候群か? 原因不明の能力喪失、複数分野で発生』
放送後のSNSでは、Loss症候群のハッシュタグが、三時間で二十万件を超えた。「私も同じかもしれない」「知り合いが急に仕事ができなくなった」「これって新型の病気?」。根拠のない推測と、切実な体験談が、同じタイムラインの上で、混ざり合った。
ネットニュースの見出しには、「政府の秘密実験説」「新種のウイルス説」「ストレス社会の限界説」が並んだ。真実に近い説は、ひとつもなかった。
灰谷透真のオフィスでも、昼休みに、若手の社員が二人、コーヒーを飲みながら話していた。
「Loss症候群って怖くない? 突然できなくなるんだよ」
「いや、あれスポーツ選手だけでしょ。俺ら関係ないって」
二人の声が、灰谷のデスクまで届いていた。灰谷は、パソコンの画面から目を上げなかった。画面の中には、久我山グループの三期先の事業計画の、七十三ページ目が、開いていた。
◇
神保町の古い雑居ビルの三階の、三畳の事務所で、黒田恭介は、テレビの画面を見ていた。
ステンレスのマグカップの中の珈琲が、冷めていた。冷めた珈琲の表面に、蛍光灯の光が、ひとつ、浮いていた。
黒田は、テレビのリモコンで、音を消した。
消したあと、自分の机の上のノートを開いた。
表紙に『Loss』と書かれたノートの、七ページ目に、黒田は、新しい名前を書き加えた。
宮園春人。二十一歳。将棋棋士。発症日、推定、先週の金曜日から土曜日の間。
黒田は、ペンを止めた。止めた先で、ノートの三ページ目を開き直した。
三ページ目には、安藤圭吾と瀬川陽人の名前が、並んでいた。
三人の名前の下に、黒田は、横線を一本引いた。横線の下に、小さな字で、こう書いた。
『発症前に何があったか。三人に共通する出来事はあるか。接触か。場所か。人物か』
黒田は、ペンの尻で、自分のこめかみを、軽く、叩いた。叩いた回数は、三回だった。
三回叩いたあと、黒田は、冷めた珈琲をひと口飲んだ。珈琲の温度は、もう、室温と同じだった。
黒田は、椅子の背もたれに体を預けて、天井を見た。天井には、前の住人が残した画鋲の穴が、三つ、並んでいた。
三つの穴を見ながら、黒田は、自分が何年ぶりに、こういう熱を感じているかを、ぼんやり、数えた。フリーランスになってから七年。この七年間で、一番大きな記事は、地方の産廃業者の不法投棄を追った連載だった。あれは、金にならなかった。今回も、たぶん、金にはならない。
けれど、この三人の名前の下に、何かが、ある。
何か、一本の糸が通っている。
黒田は、椅子を起こして、ノートの八ページ目に、取材計画を書き始めた。最初に書いたのは、安藤圭吾の名前と、「体験入会で来た男」という、ビデオ通話で安藤が瀬川に語ったとされる言葉だった。
◇
同じ日の午後六時過ぎに、灰谷透真がかつて勤めていたオフィスビルの四階の、経理部のデスクで、朝比奈沙月は、手帳を開いていた。
手帳の名前は「2025-α」だった。二年目に入った手帳だった。
朝比奈は、手帳の最新のページに、今日のワイドショーで聞いた三つの名前を書いた。安藤圭吾。瀬川陽人。宮園春人。
三つの名前の隣に、報道された発症時期を書いた。
書いたあと、手帳の前のほうのページを、ゆっくり、めくった。
三ページ前に、灰谷透真のタイムラインがあった。
朝比奈が、赤いボールペンで、少しずつ書き足してきたタイムラインだった。
灰谷くんがスポーツジムに通い始めた時期——安藤圭吾の発症時期。
灰谷くんの体つきが変わった時期——安藤圭吾の体調不良報道。
灰谷くんが慈善イベントに出席した時期——瀬川陽人の引退会見の六ヶ月前。
朝比奈は、今日の新しいデータを加えた。
灰谷くんが突然「三手先が読める」と口走った時期——宮園春人の対局中断。
その一行を書いたあと、朝比奈のペンが、ほんの一秒、止まった。
止まったペンの先から、インクが、薄い点になって、手帳の紙に、滲んだ。
滲んだ点を、朝比奈は、しばらく、見ていた。
灰谷くんは、あの瀬川選手が引退した日に、テレビを見ながら何も感じていなかった。
それは、朝比奈が直接見たわけではない。灰谷本人が、翌日の食堂で「引退会見、見た?」と聞いた朝比奈に対して、「ああ、やってたね」とだけ答えた時の、声の温度で、推測しただけだった。
推測に過ぎなかった。
けれど、朝比奈の中の、経理部員としての、数字の直感が、この推測を「推測」のままにしておくことを、許さなかった。
朝比奈は、手帳を閉じた。
閉じた手帳を、デスクの引き出しにしまおうとした。しまう手が、一瞬、止まった。引き出しの二段目は、普通の引き出しだった。三段目には、鍵がついていた。
朝比奈は、手帳を、三段目の、鍵付きの引き出しに、入れた。
入れたあと、鍵を回した。
回した鍵を、自分のカードケースの中の、いちばん奥のポケットに、入れた。




