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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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崩壊する盤面

 覚めた瞬間に、いつもと同じように、天井を見た。天井は白かった。白い天井の中央のシーリングライトの円形の影を、宮園の目は、いつもなら、無意識に、二つの正方形と三つの三角形に分解する。


 分解が、起きなかった。


 円は、ただの、円だった。


 宮園は、布団の中で、三秒ほど、目をしばたたいた。しばたたいた三秒の間に、胸の奥で、何かが、薄く、傾いた。傾いたものの名前を、宮園は、まだ知らなかった。



  ◇



 和室の隅の、小さな将棋盤の前に、座った。


 毎朝の日課だった。起きてから十五分以内に、詰将棋を三題解く。五歳の時から、一日も、欠かしたことがなかった。


 詰将棋の本を開いた。今日のページは、五手詰めだった。


 盤面を見た。


 玉は、九一にいた。攻め方は、金と銀と桂が、それぞれの位置にいた。


 見えた。配置は、見えた。


 しかし、その先が、来なかった。


 いつもなら、配置を見た瞬間に、答えが、向こうから来る。金を打つ。玉が逃げる。銀を動かす。合駒する。桂を跳ねる。詰み。答えは、宮園の頭の中では、見るものではなく、浮かぶものだった。


 浮かばなかった。


 宮園は、もう一度、盤面を見た。


 金を打つ。それは、たぶん、合っている。しかし、金を打った後に、玉がどこに逃げるのか、が、わからなかった。


 わからない、という感覚が、宮園には、なかった。十六年間、将棋がわからないと感じたことが、一度もなかった。負けた七局は、わからなかったのではなく、相手のほうが一手だけ早かったのだ。


 宮園は、駒を手に取った。


 木の感触は、いつもと同じだった。指の腹に、桂の文字の彫りの深さが、薄く、当たった。


 当たった感触と、その駒が盤面のどこに行くべきかという答えが、繋がらなかった。


 駒は、ただの、木片だった。



  ◇



 午後二時の公式戦は、千駄ヶ谷の将棋会館の三階の対局室で行われた。


 畳の部屋だった。対局者二人と、記録係の若い男が一人。部屋の隅に、中継用のカメラが一台。


 対局相手は、四十代の、八段の棋士だった。穏やかな顔をした男で、宮園は何度も対戦したことがあった。過去の対戦成績は、宮園の七戦七勝だった。


 振り駒が行われ、宮園が先手になった。


 初手、七六歩。


 宮園は、いつもの手を指した。指す動作は、体が覚えていた。序盤の定跡は、筋肉の記憶として残っていた。


 十五手目あたりで、定跡を外れた。


 相手が、角道を止めず、居飛車の急戦形に、組み替えてきた。


 宮園は、盤面を見た。


 見た盤面の上に、いつもなら重なるはずの、五十手先の変化図が、重ならなかった。


 盤面は、ただの盤面だった。九九の数字が並んでいるだけで、そこから伸びるはずの枝が、一本も見えなかった。


 宮園の右手が、駒台の上で、止まった。


 止まった手を、宮園自身が見ていた。この手は、いつも、三秒以内に動く手だった。五秒を超えたことは、ほとんどなかった。


 対局時計の針が、刻んでいた。


 十秒。二十秒。三十秒。一分。


 記録係の若い男が、ちらりと、宮園の顔を見た。


 宮園は、銀を上がった。上がった瞬間に、それが悪手だということが、体の中の、どこか遠い場所で、わかった。わかったが、なぜ悪手なのかを、言語化できなかった。


 相手の八段は、三秒で、飛車を振った。


 振った飛車の位置を、宮園の頭は、ただ、見た。見ただけで、対応が出てこなかった。


 二十七手目で、宮園は、歩を突いた。突いた歩の位置が、自分でも、なぜそこなのかわからなかった。いつもなら、指が勝手に正解の場所に行く。今日の指は、ただ盤面の上を彷徨っていた。


 相手の八段の表情が、変わった。穏やかだった顔の中に、困惑が入った。宮園春人を相手に困惑する棋士は、プロの中にはいない。いないはずだった。


 記録係の手帳に、「三十一手目、宮園七冠、長考。九分十四秒」と記録された。宮園が九分以上考えたという記録は、プロ入り後、一度もなかった。


 宮園の手が、震え始めた。



  ◇



 四十三手目で、宮園の指が、駒台の駒を落とした。


 駒が畳の上に、ころん、と転がった。


 桂馬だった。


 転がった桂馬を拾おうとして、宮園の手が、別の駒に触れた。触れた駒が、盤面の上で動いた。


 反則だった。


 対局室の空気が、止まった。


 相手の八段が、宮園の顔を見た。記録係が、手帳から顔を上げた。中継カメラのレンズが、宮園の手元を映していた。


 宮園は、自分の手を見ていた。


 この手は、昨日まで、百手先の盤面を同時に回していた手だった。三十二手目で角を動かして、七手先の詰みを見せた手だった。


 今、この手は、桂馬を拾えなかった。


 廊下の向こうの控室の扉が、開いた。


 高柳九段が、入ってきた。七十代の、痩せた師匠が、畳の縁を踏まずに、ゆっくりと、対局室に近づいた。


 高柳の目が、宮園の目を見た。


 宮園の目から、涙が、ふたつ、同時に、流れた。


「先生」


 宮園の声は、二十一歳の声ではなかった。五歳の、祖父の膝の上で初めて駒を持った時の、あの子どもの声に、戻っていた。


「将棋が、見えません」


 高柳は、何も言わなかった。何も言わない代わりに、宮園の右の肩に、自分の右手を、置いた。置いた手の下で、宮園の肩が、薄く、震えた。



  ◇



 救急車の中で、宮園は、天井の蛍光灯を見ていた。


 蛍光灯の形は、長方形だった。長方形を、宮園の頭は、もう、分解しなかった。


 病院に着いて、MRI検査を受けた。検査は四十分かかった。


 結果は、異常なし、だった。


 担当医が、モニターの画像を見ながら、首を傾げた。


「器質的な問題は、見当たりません。脳の構造に異常はない。ですが」


 担当医は、宮園の顔を見た。


「三手詰めが解けないとおっしゃいましたが、それは、集中力の問題ではないですか」


 宮園は、ベッドの上で、自分の両手を見ていた。


 両の手のひらの中央に、何も、なかった。瀬川の手のひらには白い跡が残っていたが、宮園の手のひらには、跡すら残っていなかった。奪われたものが手のひらを通らなかったのかもしれない。肩甲骨の上から入って、頭の中を、直接、通り抜けていった。


「先生」


 宮園は、担当医を見上げた。


「僕の頭の中は、空っぽの箱です」


 担当医は、何も、答えられなかった。



  ◇



 同じ夜の九時過ぎに、久我山グループの十六階の経営会議室で、灰谷透真が、三期先の事業計画の修正案を、十二人の役員に説明していた。


 説明の中で、灰谷は、競合他社の三年後の戦略を、三パターン、同時に提示した。三パターンのそれぞれに対する対応策を、枝分かれの図として、ホワイトボードに描いた。


 枝分かれの図は、将棋の変化図と、同じ構造だった。


 久我山が、ホワイトボードの図を見て、一度だけ、瞬きをした。


「透真。お前、いつから、こんなものが、描けるようになった」


「最近、少し、思考の整理ができるようになりまして」


 灰谷の声は、穏やかだった。穏やかな声の中の、ある種の余裕を、十二人の役員のうちの何人かは、不気味に感じた。


 ホワイトボードの上の枝分かれの図の、いちばん先端の、三手先の予測の精度を、この部屋の誰も、検証できなかった。

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