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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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七冠の代償

 暖簾の向こうに、タイル張りの三和土があった。三和土の上に、古い下駄箱が並んでいた。下駄箱の鍵は、番号の書かれた木の札だった。


 俺は、三十七番の札を取って、靴を入れた。


 午後四時の銭湯には、先客が五人ほどいた。脱衣所の木のベンチに腰掛けている老人が一人。ロッカーの前で服を脱いでいる中年男性が二人。あとの二人は、すでに浴室に入っていた。


 俺は、ロッカーの端の方で、ジャケットを脱ぎ始めた。


 脱ぎながら、脱衣所の空気を、鼻で、吸った。


 石鹸の、古い匂いがした。塩素の、薄い匂いの下に、木の床の湿り気の匂いがあった。タイルの目地の、黄ばんだ匂いがあった。駅前のオフィスビルの匂いとも、久我山グループの十六階の匂いとも、何も共通するところのない匂いだった。


 宮園が来るかどうかは、わからなかった。


 SNSの投稿は、三ヶ月前のものだった。行きつけ、と書いてあっただけで、頻度はわからなかった。今日来なければ、明日も来る。明後日も来る。水曜の定休日を除いて、毎日、午後四時に、ここに来る。


 それが、俺の計画だった。



  ◇



 浴室に入った。


 タイル張りの床は、濡れて、ぬるかった。壁の上部に、富士山のペンキ絵が描かれていた。ペンキは何度か塗り直された跡があり、富士の山頂の雪の色が、三層になっていた。


 洗い場で体を洗い、湯船に入った。


 湯は、少し熱かった。四十二度くらい。


 俺は、湯船の端に座って、天井のペンキ絵の雲を見ていた。雲の形は、たぶん、三十年前に描かれた時のままだった。


 十五分ほど経った頃、浴室のガラス戸が開いた。


 入ってきたのは、細い体の、若い男だった。


 髪を後ろで束ねて、タオルを肩にかけていた。


 宮園春人だった。


 俺は、宮園の顔を見なかった。見ない代わりに、湯船の中で、自分の膝の上の湯の表面を、ぼんやり、見ていた。


 宮園は、洗い場の、俺から三つ離れた蛇口の前に座った。シャワーの音が、タイルの壁に跳ねた。


 五分ほどして、宮園が湯船に入ってきた。


 湯船は広くなかった。俺と宮園の間は、一メートルほどだった。


 俺は、何も言わなかった。


 宮園も、何も言わなかった。


 二人とも、黙って、湯の中にいた。



  ◇



 三分ほど、黙っていた。


 俺のほうから、声をかけた。


「すいません。ここ、いつ頃からあるんですか」


 宮園が、横を向いた。


「さあ、僕も、詳しくはないんですが。たぶん、昭和のはじめからあると、番台のおばあちゃんが言ってました」


「そうですか。いい銭湯ですね」


「はい。静かで」


 宮園は、それだけ言って、また、前を向いた。


 俺は、会話を続けなかった。


 一分ほど、また黙った。


 宮園のほうから、ふと、声が出た。


「お客さん、このへんの方ですか」


「いえ、港区のほうから来ました。ネットで、いい銭湯だと見つけて」


「ああ、あの投稿。知り合いが勝手に書いたやつだ」


 宮園が、少し、笑った。


「僕のことは、たぶん、ご存じないですよね」


「将棋の方、ですよね。宮園さん。テレビで見たことがあります」


「ああ、やっぱり」


 宮園は、湯の中で、自分の膝を抱えた。


「ここに来ると、将棋のことを、考えなくて済むんです。家にいると、どうしても、盤面が頭に浮かんで」


「大変ですね」


「大変、というか。勝つことしかできない自分が、怖い時が、あるんです」


 宮園の声が、低くなった。


「プロになってから、負けたことは、七回です。七回しか負けてないのに、毎回、負けた夜は、朝まで眠れない。勝った夜は三分で眠れるのに」


 俺は、相槌を打たなかった。


 相槌を打たない代わりに、自分の体を、わずかに、宮園のほうに、傾けた。傾きの角度は、たぶん、二度くらいだった。本郷の引き出しの中にある、相手の言葉を引き出す姿勢の角度だった。


「七冠がかかってるんでしょう」


「はい。来月の名人戦で、全部決まります」


 宮園は、湯の中の自分の手を見ていた。


「この手が、来月も、ちゃんと動くかどうか。それだけが、怖いんです」


 俺は、宮園の言葉を聞きながら、湯の中の自分の右手の位置を、確認していた。右手は、湯の表面の下の、自分の腿の横にあった。宮園の肩までの距離は、八十センチほどだった。



  ◇



 湯船から上がって、脱衣所に戻った。


 宮園は、俺より二分ほど遅れて、上がってきた。


 俺は、ロッカーの前で、タオルで体を拭いていた。


 宮園が、隣のロッカーの前に来た。


「さっきは、変なこと言って、すみません。初対面の人に」


「いえ、とんでもないです。応援してます」


「ありがとうございます」


 宮園は、着替えながら、もう一度、笑った。さっきの湯船の中の笑い方よりも、薄い笑い方だった。


 俺は、シャツのボタンを留め終わって、自分のジャケットを手に取った。


 ジャケットを手に取る動きの中で、俺の右手が、宮園の左肩に、ふと、触れた。


「あ、すいません。狭いもんで」


「いえ、大丈夫です」


 触れた瞬間は、〇・五秒だった。


 〇・五秒では、足りなかった。


 俺は、ジャケットの内ポケットから、名刺入れを取り出すふりをして、バランスを崩した。崩したバランスを立て直す動きの中で、右手が、宮園の肩にもう一度、触れた。


 今度は、手のひら全体が、宮園の肩甲骨の上に、乗った。


「すいません、ほんとに」


「全然、大丈夫ですよ」


 宮園は、気にした様子もなく、ロッカーの中の荷物に手を伸ばした。


 俺の手のひらが、宮園の肩甲骨に触れていた時間は、四秒だった。


 四秒の間に、流れ込んできたものは、安藤の時とも瀬川の時とも、桁が違った。


 最初に来たのは、数字だった。数字の洪水だった。盤面の上の駒の配置が、八十一マスの数字として、一瞬で、俺の頭の中に展開された。展開された盤面から、枝が、百本以上、同時に伸びた。枝の先に、また枝が伸びた。枝の先の枝の先の枝の先まで、宮園の頭の中では、ぜんぶ、同時に、見えていた。


 次に来たのは、温度だった。宮園の祖父の膝の上の温度だった。五歳の宮園が、祖父の膝の上で、初めて駒を手に取った時の、駒の木の温度が、俺の指の腹に、染み込んだ。


 俺の視界が、一瞬、白くなった。


 白くなった視界の中で、八十一マスの盤面が、ひとりでに、回転した。


 回転が止まった時、俺は、自分のロッカーの取っ手を握って、立っていた。


 宮園は、隣で、普通に着替えていた。少し顔色が悪いような気がしたが、本人は気づいていないようだった。


「のぼせちゃったかな」


 宮園が、自分のこめかみを押さえながら、呟いた。


「お大事に」


 俺は、それだけ言って、脱衣所を出た。



  ◇



 銭湯の暖簾をくぐって、外に出た。


 商店街の夕暮れの空気が、俺の濡れた髪に、当たった。


 歩き始めた。


 歩き始めた瞬間に、世界が、変わった。


 商店街の人の流れが、盤面の上の駒の動きに見えた。前から歩いてくる女性は、飛車の横移動だった。自転車で追い越していく中学生は、桂馬の跳躍だった。信号待ちで止まっている老人は、歩の一マス前進の、手前の、まだ動いていない状態だった。


 俺は、交差点の信号が変わるまでの二十三秒の間に、この交差点を通過する全ての人間の、三手先の動きを、頭の中で、同時に、計算していた。


 計算が終わった時、俺の口の端が、ゆっくりと、上がった。


 上がった口の端の温度は、四秒前の宮園の肩甲骨の温度と、まだ、同じだった。

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