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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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記念対局

 会館の入口に、立て看板が出ていた。


 『宮園春人七冠挑戦記念 特別対局イベント』


 看板の下に、すでに、三十人ほどの来場者が、並んでいた。四十代から六十代の男性が多く、中に、高校生くらいの男の子が二人、紙袋を抱えて、並んでいた。紙袋の中に、サイン色紙が入っていることは、紙袋の形で、わかった。


 俺は、列の後ろのほうに、並んだ。並んだ自分の服が、このビルの客層と微妙にずれていることを、安藤の引き出しが教えた。スーツは着てこなかった。代わりに、黒のジャケットと白のシャツ、ジーンズ。営業マンにも、将棋ファンにも見えない格好。


 それで、よかった。



  ◇



 イベントホールは、三階の大広間だった。


 正面に、大盤が立てかけられていた。盤面に、磁石の駒が、初期配置で、並んでいた。


 客席は、パイプ椅子で、百五十席ほど。九割が埋まっていた。


 俺は、前から四列目の、右端の席に座った。


 大盤の隣に、解説者席があった。五十代の棋士と、女流棋士が、マイクの前に座っていた。


 午前十一時に、対局者が入場した。


 前名人は、六十七歳の、大きな体の男だった。あとから入ってきた宮園春人は、テレビで見たよりも、小さかった。


 紺ではなく、灰色の着物だった。細い肩。伏し目がちに歩く癖。爪先が、畳の縁を正確に踏まずに歩いていた。


 客席のどよめきは、小さかった。将棋ファンは、こういう場で騒がない。代わりに、百五十人の呼吸が、ふっ、と、揃った。


 宮園が、駒を並べ始めた。


 長い指が、駒を一つずつ、盤面の正しい位置に、置いた。


 駒が畳を打つ音が、乾いていた。ぱ、ぱ、ぱ、と、十秒ほどで、二十枚の駒を並べ終えた。


 その十秒間に、俺は、宮園の指の動きだけを見ていた。指の関節の角度が、一枚ごとに微妙に変わった。変わり方の幅が、結城の引き出しの中で、勝手に計測された。計測結果は、誤差〇・三度以下だった。


 人間の指は、こんな精度では、動かない。


 あれは、二十一年間の訓練の末に、脊髄に焼き付いた精度だった。



  ◇



 対局は、四十分で終わった。


 前名人が、盤面の中央を制圧しようとした。宮園は、それを許した。許した顔をして、三十二手目に、角を動かした。


 角が動いた瞬間に、解説者が、マイクの前で、言葉を失った。


「えっ、これは。待ってください。これ、銀が逃げられない。ということは」


 解説者が大盤の上で駒を動かし始めた。七手先まで動かして、手が止まった。


「詰みです。ここから先は、何をやっても、七手で詰みます」


 客席から、ひとりだけ、小さく、あ、と声を漏らした老人がいた。あとの全員は、黙っていた。


 黙っている百五十人の中で、俺だけが、別のことを考えていた。


 三十二手目の角の動き。あの一手を打つまでの宮園の目は、盤面を見ていなかった。正確には、盤面の上の、この世界にはまだ存在しない七手先の局面を見ていた。


 あの目の中に入っている計算の質は、結城の分析力とは根本的に異なるものだった。結城の分析は、あるものを分解する力だった。宮園のそれは、ないものを先に見る力だった。


 俺は、腹の底が熱くなるのを感じた。



  ◇



 解説が終わり、客席がざわめき始めた。隣の席の五十代の男が、連れに、小声で「あれ、三十二手目で見えてたんだよ。化け物だよ」と言った。


 化け物。


 その二文字を、俺は、自分の口の中で、転がさなかった。転がす代わりに、頭の中の書庫の棚に、静かに、置いた。


 対局室の奥の扉から、宮園の師匠が入ってきた。高柳九段。七十代の、痩せた老人だった。高柳は、対局を終えた宮園の肩に、右手を置いた。置いた手の下で、宮園は、一度だけ、目を閉じた。


 師匠と弟子の距離が、俺の中の何かに触れた。触れたものの名前を、俺は、考えなかった。考える代わりに、久我山の顔が、一瞬だけ、よぎった。よぎったあと、消えた。



  ◇



 対局後のサイン会は、一階のロビーで行われた。


 宮園の前に、長いガラスの仕切りがあった。仕切りの向こうに、宮園が座っていた。ファンは、仕切りの手前に色紙を置き、宮園が仕切り越しに手を伸ばしてサインを書く形式だった。


 握手はなかった。


 俺は、列に並びながら、その事実を確認した。確認した瞬間に、腹の底の熱が、ふっと、冷えた。


 自分の番が来た。


 色紙を持っていなかった。代わりに、ポケットから、白いハンカチを取り出して、ガラスの向こう側の台に置いた。


「ハンカチでも、書いていただけますか」


 宮園が、ちらり、と、こちらを見た。


 近くで見た目は、テレビで見た目と、やはり、違った。テレビ越しには分からなかった種類の疲れが、まぶたの下に、薄く、入っていた。二十一歳の顔に、六十代の影が重なっている瞬間があった。


「はい、もちろん」


 宮園は、小さく笑って、油性ペンを取った。


 サインを書く間の、宮園の指の動きを、俺は、ガラス越しに見ていた。


 ガラスの厚さは、五ミリくらいだった。五ミリのガラスの向こうに、俺が欲しいものの全てが、入っていた。


 宮園が、ハンカチを返してくれた。ガラスの手前に置かれたハンカチの上に、「宮園春人」の四文字が、角の立った筆跡で、残っていた。


「ありがとうございます」


 俺は、頭を下げた。下げながら、ガラスの仕切りの、下端と台の隙間を確認した。隙間は三センチほどだった。手を差し込める幅ではなかった。


 列の後ろの女性が、色紙を差し出した。俺は横にずれて、ロビーの端の柱に寄りかかった。


 柱に寄りかかった場所から、サイン会の列の全体が見えた。二十人ほど残っていた。宮園は、一人ひとりに小さく笑って、丁寧にサインを書いていた。書くたびに、指の角度が変わった。対局中の手と、サインを書く手は、別の手だった。対局の手のほうが、生きていた。


 最後の一人のサインが終わると、スタッフが宮園を奥に誘導した。宮園は、ロビーの出口のほうを一度振り返った。振り返った目が、俺の立っていた柱のあたりを、通り過ぎた。通り過ぎただけで、止まらなかった。


 止まらなくて、よかった。


 今日の俺の顔を覚える必要はない。覚えてほしいのは、次の場所で会う、もっと無害な顔のほうだった。



  ◇



 タワーマンションに戻ったのは、午後五時過ぎだった。


 リビングのソファに座って、スマートフォンを開いた。


 宮園春人の名前で、検索した。公式サイト、将棋連盟のプロフィール、ファンサイト、ニュース記事。どれも、対局の記録と、経歴の紹介しか載っていなかった。


 俺は、検索の窓を、SNSに、切り替えた。


 宮園のSNSのアカウントは、本人ではなく、ファンが運営する非公式のものが、三つ、あった。そのうちの一つに、宮園が下町の銭湯に通っているという投稿があった。


 投稿には、写真が添付されていた。


 写真の中の銭湯の暖簾には、「富士の湯」と書かれていた。暖簾の向こうに、タイル張りの入口が見えた。背景に、古い商店街のアーチが映っていた。


 俺は、写真を拡大した。商店街のアーチの文字と、電柱の住所表示を確認した。検索すると、場所は特定できた。


 下町の、住宅街の中の、小さな銭湯だった。


 営業時間は、午後三時から午後十時。定休日は水曜日。


「ここなら、自然に、接触できる」


 俺は、声に出さずに、口の形だけで、そう言った。


 言ったあとの自分の顔を、スマートフォンの黒い画面の反射の中に、見た。


 反射の中の俺の目は、将棋の対局中の宮園の目と、たぶん同じ種類の光を、帯びていた。


 ただし、宮園の目が見ていたのは、盤面の七手先だった。


 俺の目が見ていたのは、来週の銭湯の脱衣所だった。

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