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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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盤上の天才

 開いた扉の先の、絨毯の色が、変わった。


 俺がこれまで歩いたことのある絨毯は、中堅メーカーのオフィスの、薄い灰色の、足の裏が沈まない種類のものだった。十六階の絨毯は、暗い紺色で、革靴のかかとが、ひと呼吸ぶん、深く、沈んだ。


 受付の女性が、俺の名前を確認して、奥へ案内した。


 廊下の両側に、ガラスの仕切りの向こうに、役員たちのデスクが、並んでいた。ガラス越しに、五つの目が、こちらを見た。見た目の角度の中に、好奇は、ひとつも、なかった。


 代わりに、警戒と、値踏みが、薄く、並んでいた。


 俺は、その五つの目を、五人分の肩の力の癖として、自分の中の引き出しに、順番に、しまった。しまうのに、三秒、かかった。半年前なら、三秒どころか、ひとつの目にすら、気づかなかった。


 案内された個室は、角部屋だった。窓の外に、赤坂のビル群が、薄い午前の光の中で、並んでいた。


 椅子に、座った。


 革張りの座面が、冷たかった。冷たさが、ズボンの生地を通して、太腿の裏に、じんわりと、伝わった。


 俺は、その冷たさを、しばらく、黙って、受け取った。受け取りながら、自分の名刺入れの中の、新しい名刺を、一枚だけ、取り出した。


 久我山グループ 特別顧問 灰谷透真。


 八文字を、俺は、自分の目で、読んだ。読んだあと、名刺を、元に、戻した。


 戻した指の腹が、名刺の角を、軽く、撫でた。半年前には触れたことのない厚さの紙だった。



  ◇



 午前十一時に、久我山から、内線が来た。


「透真。ちょっと、外に出えへんか」


 車が、本社の地下から出て、赤坂の裏路地を三つ曲がった先の、看板のない引き戸の前に、止まった。


 引き戸を開けると、畳の匂いではなく、碁盤の、乾いた木の匂いが、した。


 囲碁サロンだった。


 午前中のサロンには、俺たちのほかに、客は、二人しかいなかった。奥の六畳ほどの小さな座敷に、久我山が、先に上がって、碁盤の前に、座った。


 俺は、向かい側に、座った。


「打てるか」


「いいえ。ルールくらいしか」


「ええよ。見てろ」


 久我山が、碁石の入った碗から、黒い石を、ひとつ、取り出した。


 石が盤面に置かれた瞬間の音が、こ、と、薄く、鳴った。


 音が、サロンの低い天井の板に当たって、柔らかく、返ってきた。


 久我山は、続けて、黒を三つ、白を二つ、ぽつ、ぽつ、と並べていった。並べている間、俺には何も言わなかった。俺も何も言わなかった。サロンの中には、石が盤を打つ音だけが、等間隔に、続いた。


 十二手目くらいで、久我山の手が止まった。


「透真」


「はい」


「経営のいちばん下の階に、体力がある。まん中の階に、人を動かす力がある。いちばん上の階に、何があると思う」


 俺は、三秒、黙った。


「判断力ですか」


「惜しい。それは七階くらいや」


 久我山は、白い石をもうひとつ、盤の上に置いた。


「いちばん上は、思考力や。数字を読む力でもなく、相手の腹を読む力でもなく、百手先に何が起きるかを、頭の中で、ぜんぶ、回す力」


 久我山の低い声が、サロンの空気を一段、下げた。


「ワシは、その力が、足りんかった。四十年やってきて、七十点は取れた。けどな、百点の人間を、ワシは知っとる。あいつらは、目が、違う」


 久我山は、碁石をもうひとつ、取り出した。取り出した石を、盤の上に置く代わりに、自分の手のひらの上で、くるり、と転がした。


「ワシがこの店に来るのは、二十年前からや。経営に煮詰まった時に来る。碁を打つんやない。碁石の音を聞きに来るんや」


 こ、と、久我山が石を置いた。


「この音がな、ワシの頭の中で、何かを、ひとつ、整理する。けどな、整理するだけで、その先を回す力は、この音ではくれん」


 俺は、その言葉を、聞いた。聞いた瞬間に、俺の中の器の口が、ふと、半ミリ、開いた。開いた縁の温度が、囲碁サロンの静けさの中で、薄く、上がった。


 久我山は、最後に、黒い石と白い石を一つずつ碗に戻しながら、ふと、低い声で、笑った。


「テレビで見たやろ。あの宮園いう将棋の若造。あいつの頭が、欲しいなあ。冗談やけどな」


 冗談の二文字を、俺は、笑い返さなかった。


 笑い返さなかった自分の口元を、久我山は、見たかもしれないし、見なかったかもしれない。


 久我山は碁盤の上の石を片付け始めた。片付ける指の、丁寧さの中に、五十五年分の何かが、入っていた。その何かの名前を、俺の中の結城の分析の引き出しが、一瞬で計算した。計算の結果は、経営判断力、だった。


 俺の右手の指先が、自分の膝の上で、半ミリ、動いた。


 動いた先には、久我山の背中が、あった。背中の肩甲骨の間に、あの引き出しの入口が、あるような気がした。


 だが、今日は、触れなかった。



  ◇



 その夜、俺は、タワーマンション三十二階のリビングのソファに、座っていた。


 テレビは、つけていなかった。


 つけていない画面の中央に、リビングの照明が、薄く、反射していた。反射の中に、俺の顔が、暗く、映っていた。


 映った顔は、半年前の顔では、なかった。


 それは、もう、何度も確認した事実だった。確認するたびに、その事実は、俺の中で、少しずつ、当たり前のものに、変わっていった。


 俺は、リモコンを取って、テレビをつけた。


 たまたま、夜の報道番組の、文化コーナーが流れていた。


 画面の中で、紺の和服の若い男が、将棋盤の前に座っていた。


 宮園春人。二十一歳。


 三日前の夜、俺がチャンネルを変えた先に映っていた、あの男だった。


 番組は、宮園の半生を追うドキュメンタリーの予告編だった。五歳で将棋を覚え、十歳で奨励会に入り、十四歳でプロ入り。史上最年少で六つのタイトルを獲得し、最後のひとつ、名人位に挑戦する。


 カメラが、対局中の宮園の手元を映した。


 長い指が、駒を摘んだ。摘んだ指の腹の圧力は、たぶん、百グラムにも満たない。それなのに、その指の先端に、百手先の盤面の全てが、乗っていた。


 俺は、画面の中の宮園の目を見た。


 対局中の目は、何も見ていないように見えた。正確には、盤面の上の、この世界には存在しない、百の枝分かれの先を、全部同時に見ていた。


 その目の中に宿っている思考力を、俺の中の引き出しの全てを合わせても、再現できなかった。


 結城の分析は、数字を分解する力だった。水野の記憶は、情報を格納する力だった。どちらも、思考力の部品ではあったが、宮園の目に宿っているものとは、桁が違った。


 宮園の目には、世界を盤面として読み替える力があった。


 あれを手に入れたら、と俺は思った。


 あれを手に入れたら、久我山の言う「いちばん上の階」に、立てる。


 思った瞬間に、俺の右の手のひらの中央の器が、昼間の囲碁サロンの石の音を、ふと、思い出した。あの、こ、という音が、器の底で反響した。


 俺は、ソファから手を伸ばして、ローテーブルの上のスマートフォンを取った。


 検索窓に、「宮園春人 公開対局」と打ち込んだ。


 検索結果の三番目に、将棋連盟の公式サイトが出た。


 三日後の土曜日に、千駄ヶ谷の将棋会館で、記念対局イベントが開かれる。宮園春人と前名人の特別対局。大盤解説あり。対局後にサイン会あり。来場者募集中。


 俺は、募集ページを、開いた。


 開いたページの、申し込みボタンの上で、俺の親指は、三秒間、止まった。


 三秒後に、押した。

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