涙と沈黙
会議室の正面の白いパネルの真ん中に、瀬川が、十二歳の頃から所属しているクラブの、青い小さなロゴが、貼られていた。ロゴの下に、瀬川の名前と、引退表明、の四文字が、薄い書体で、印刷されていた。
午後二時の開始の三十分前から、会議室の入り口は、すでに、報道陣で、埋まっていた。テレビ局のクルーが、四組。スポーツ紙が、六社。一般紙の、社会部らしい記者が、二人。一般紙の社会部が来ている、ということに、瀬川の長年のコーチは、控え室で、低い声で、ふっ、と気づいた。気づいたあと、コーチは、瀬川には、そのことを、伝えなかった。
◇
控え室の長椅子の上で、瀬川は、自分の両手を、膝の上に、置いていた。
膝の上の両手の指の腹の間に、薄い、ふだん通りの汗が、ふた粒、滲んでいた。
ふだん通り、というのは、半年前までの、レース直前の、瀬川の指の汗の量、ということだった。
半年ぶりの、その汗の感触を、瀬川は、しばらく、見ていた。
見ていたら、薄い、低い場所で、一度だけ、笑いそうになった。笑わなかった代わりに、瀬川は、自分の右の手のひらの中央を、ゆっくり、自分の左の手のひらの上に、重ねた。
重ねた両手の中央は、まだ、薄く、白かった。
白さの形は、半年前の、慈善イベントの握手会の、あの、十秒の握手のあとから、ずっと、消えていなかった。
消えないままで、瀬川は、立ち上がった。
◇
会見場の正面のテーブルに、瀬川は、ゆっくり、座った。
目の前の、十数本のマイクの先端が、ぜんぶ、瀬川の口元の、十センチ手前に、整列していた。
瀬川は、自分の喉の奥を、ひと呼吸、清めた。
「本日は、お集まりいただき、ありがとうございます」
ふだんの記者会見の、最初の一文だった。
「本日、私、瀬川陽人は、競泳選手としての、現役を、引退することを、決めました」
会場の、シャッターの音が、いっせいに、半拍、上がった。
半拍だけ、上がったあと、もとの薄い静けさに、戻った。
瀬川は、自分の前のメモを、ほとんど、見なかった。
見なくても、言葉は、ふしぎと、出てきた。
◇
「私にとって、水泳は、ぜんぶでした」
瀬川の声は、低かった。
「五歳のときに、生まれて初めて、市民プールの、いちばん浅い場所の、子ども用の手すりに、つかまったときから、私は、水と、生きてきました。水と、話してきました。水は、私の体の、外側にありながら、私の体の中にも、ずっと、住んでいました」
会場の、シャッターの音が、薄く、また、上がった。
「半年前のある日、水が、私の体に、知らない人の顔を、向けてきました」
瀬川の声の中に、ふた呼吸ぶんの、薄い、湿りが、入った。
「水は、消えませんでした。プールも、そこに、あります。塩素の匂いも、いつも通りです。けれど、私の体と水の間に、薄い、薄い、ガラスのような壁が、できました。その壁は、私が、何度、泳いでも、消えませんでした」
マイクの先端の何本かが、ほんの、五ミリだけ、瀬川の口元のほうへ、にじり寄った。
「私は、その壁の理由を、自分でも、半年間、ずっと、探しました。今も、探しています。たぶん、これからも、探し続けます」
瀬川の喉の奥で、半年分の、つかえた何かが、ふと、上に、押し上がった。
「ただ、その壁を、抱えたまま、選手のレーンに、立ち続けることは、私には、できません。レーンには、私より、まっすぐに、水と話せる、若い後輩たちが、たくさんいます。彼らのレーンを、私の壁で、塞いではいけない」
◇
瀬川の目から、最初の一粒が、ふと、頬を、伝った。
会場の、最前列のスポーツ紙の女性記者が、無意識に、自分のペンを、止めた。
瀬川は、その一粒を、両手で、拭わなかった。
拭わない代わりに、ゆっくりと、頭を、下げた。
「これまで、応援してくださった、すべての方に、本当に、ありがとうございました」
頭を下げた瀬川の後頭部の、頭頂のすぐ下のあたりに、長年のコーチの視線が、薄く、置かれていた。コーチは、控え室の壁の、いちばん端に、ずっと、立っていた。立ったまま、何も、言わなかった。
会場の後ろのほうの、いちばん端の、立ち見の場所に、もう一人、別の男が、いた。
痩せた、四十代の、フリーランスの記者だった。
その男は、メモ帳に、ペンを、ほとんど、走らせなかった。
代わりに、瀬川の、両の手のひらの中央の、薄い白さを、ずっと、見ていた。
黒田恭介の頭の中の、新しいノートの『Loss』のページに、その瞬間、新しい一行が、薄く、書き加えられた。
『瀬川陽人 手のひらの中央が、白い。本人は、それを、隠そうとしていない』
◇
同じ時刻の、六本木のタワーマンションの三十二階のリビングで、俺は、ソファに、深く、沈んでいた。
大型のテレビの画面の中で、瀬川陽人の、頭を下げた頭頂が、ゆっくりと、上がっていった。
画面の中の瀬川の目から、二粒目の涙が、頬を、伝っていた。
二粒目の涙のあとで、瀬川の後ろの、青い小さなクラブのロゴが、画面いっぱいに、映った。
俺の右手は、ローテーブルの上の、リモコンの上に、置かれていた。
置かれた指の腹の下で、リモコンの薄いプラスチックは、まったく、震えていなかった。
俺は、画面の中の瀬川の涙を、眺めていた。
眺めていることが、眺めている、という以上の意味を、俺の中で、ひとつも、生まなかった。
可哀想とも、思わなかった。
申し訳ない、とも、思わなかった。
ましてや、ざまあみろ、とも、思わなかった。
ただ、画面の中の若い男の顔が、テレビの中の他人の顔として、薄く、映っているだけだった。
俺は、自分の右の親指の腹で、リモコンの真ん中の、四角いボタンを、軽く、押した。
◇
画面が、別のチャンネルに、切り替わった。
切り替わった先は、たまたま、夕方のニュース番組の、文化のコーナーだった。
画面の中の、紺の和服の若い男が、長い指で、ゆっくりと、駒を、置いていた。
駒の置かれた音が、テレビのスピーカー越しに、こ、と低く、鳴った。
画面の上のテロップに、太い活字で、こう、書かれていた。
『天才棋士 宮園春人 史上最年少七冠達成へ あと、ひとつ』
俺の指は、リモコンの上で、止まった。
止まったあと、もう、動かなかった。
◇
画面の中の、紺の和服の若い男の、長い指の関節の角度を、俺の中の、結城の分析の引き出しが、瞬時に、薄い数字に、置き換えた。
駒を置く指の、関節の角度の、わずかな乱れの、繰り返しの中に、その若い男の、二十一年分の、勝ち抜いてきた思考のリズムが、ぜんぶ、層になって、入っていることが、俺の体には、わかった。
わかったあと、俺の右の手のひらの中央の、底の見えない器の、口の縁が、ふっ、と一段、深く、開いた。
開いた口の縁の中で、銀色の魚と、青い線と、塩の白い跡が、三つとも、初めて、薄く、寄り添った。
寄り添った三つの真ん中に、ふと、小さな、四角い、黒い、別のものが、ひとつ、生まれた。
黒いものは、駒、の形を、していた。
俺は、自分の口の中の、舌の付け根で、ふと、四文字を、低く、呟いた。
「将棋の、才能か」
呟いたあとの俺の目の奥で、薄い、低い、別の温度の火が、ひとつ、灯った。
灯った火は、この半年で、いちばん、暗く、いちばん、深かった。
画面の中の若い男は、俺の存在を、まだ、知らなかった。
知らない若い男の、紺の和服の襟元の、ほんのわずかな、夜気の動きを、俺の中の、安藤の引き出しが、勝手に、ひと撫で、感じた。
感じたあとで、俺は、ゆっくりと、ソファから、立ち上がった。
立ち上がった俺の影が、リビングの絨毯の上に、ふだんよりも、薄く、長く、伸びた。
伸びた影の先は、もう、二週間前までの、灰谷透真の、影では、なかった。




