侵食――灰谷透真が消えていく朝
覚めた目の前に、コンクリートの天井があった。天井の穴から、朝の光が差していた。光の中に、埃が舞っていた。埃が光を散乱させて、光の柱を作っていた。
光の柱の中に、灰谷は自分の手を上げた。手を見た。手は自分の手だった。手は灰谷透真の手のはずだった。
はずだった。
手を見ながら、灰谷は、自分が灰谷透真であるかどうかを、確認しようとした。確認する方法は、一つしかなかった。記憶を辿ること。灰谷透真の記憶を辿って、自分が灰谷透真であることを証明すること。
辿った。
辿ろうとした瞬間に、記憶の海が波立った。波の表面に、十七の色が浮かんだ。十七の色は、十七人の人生の色だった。灰谷透真の色だけが、海の底に沈んでいた。
最初に浮かんだのは、将棋盤だった。駒が並んでいた。飛車の位置。角の位置。「ここに指すとな、三手で相手の王様が逃げ場をなくすんだ」という声。祖父の声。祖父の膝の温かさ。畳の匂い。縁側から射す午後の光。
違う。これは宮園の記憶だ。
振り払った。次に浮かんだのは、サッカーグラウンドだった。団地の壁にボールを蹴っている。壁から跳ね返ったボールを、姉が笑いながら拾いに走る。姉のTシャツの背中に汗の染み。
これも違う。安藤の記憶だ。
振り払った。次。ヴァイオリン。小さなヴァイオリン。四分の一サイズ。祖母の膝の上で弦を弾く。「綺麗な音ね」と祖母が言う。
織部の記憶だ。
振り払った。次。次。次。
記憶が次々と浮かんでは消えた。どの記憶も、灰谷透真のものではなかった。十七人分の記憶が、灰谷の脳の中で、灰谷自身の記憶を押し退けて、表層に浮かんでいた。灰谷の記憶は、海底に沈んでいた。沈んだ記憶を引き上げようとしても、手が届かなかった。
埼玉の安アパート。母親の台所。兄の背中。
イメージは浮かぶ。しかし、イメージの解像度が低かった。母親の顔がぼやけていた。声は聞こえるが、声の質感が消えていた。兄の背中の輪郭は見えるが、服の色が分からなかった。
自分の記憶が、他人の記憶の下に沈んでいた。
灰谷は、コンクリートの床の上で、体を起こした。起こした体で、廃工場の壁を見た。壁に、昨夜書いた文字が残っていた。「灰谷透真」。隣に、指が勝手に書いた名前が三つ並んでいた。「久我山悟」「宮園春人」「織部千景」。
灰谷は、壁の前に立った。立って、石を拾った。石で、壁に新しい文字を刻んだ。
「灰谷透真」
もう一度。自分の名前を。刻んだ文字の横に、もう一度。
「灰谷透真」
「灰谷透真」
三回刻んだ。刻むたびに、石が壁を削る音がした。音はコンクリートに反響した。反響した音は、誰かの声に似ていた。似ていた声の主は、灰谷ではなかった。壁を削る腕の動きに、安藤の運動パターンが混じっていた。文字の筆順に、宮園の棋譜を記す癖が混じっていた。
刻み終わった。
刻んだ「灰谷透真」の文字を見た。見た瞬間に、違和感が来た。違和感の正体は、その名前が自分のものだという確信が、九割から八割に下がったことだった。昨日は九割五分あった。一昨日は九割八分あった。日ごとに減っていた。
◇
食料を買いに行く必要があった。
灰谷は、廃工場を出た。近くのコンビニまで歩いた。歩く道は、工業地帯の中の、灰色のアスファルトだった。道の両側に、使われていない倉庫が並んでいた。倉庫の壁はスプレーの落書きで覆われていた。
コンビニに入った。おにぎりとパンと水を買った。レジの前に立った時、灰谷の目がテレビ画面に止まった。コンビニの棚の上に置かれた小さなテレビに、ニュースが流れていた。
画面に、「Loss症候群」の文字が映った。続いて、灰谷透真の顔写真が映った。写真は、久我山グループの社員紹介ページのものだった。目が鋭く、口元が引き締まった、自信に満ちた顔だった。
灰谷は、画面の中の顔を見た。見た顔は、知らない人間の顔だった。
正確には、知っている顔だった。しかし、その顔が自分の顔だという感覚が、希薄だった。鏡で見る自分の顔と、画面の中の写真の顔の間に、断絶があった。断絶の理由は、灰谷の自己認識が崩壊し始めていたからだった。
レジの店員が、灰谷を見た。灰谷の顔と、テレビの中の顔を、一瞬だけ見比べたように見えた。灰谷の体が、反射的に緊張した。緊張は安藤の運動本能から来た。逃走経路を、河野の危機管理が0.3秒で計算した。
店員は、灰谷から目を逸らした。テレビの中の写真と、目の前の男は、似ていなかった。写真の男は鋭い目をしていた。目の前の男は、眼窩が落ち窪み、頬が痩け、三日間風呂に入っていない薄汚れた男だった。同一人物だと思う店員はいなかった。
灰谷は、テレビの画面をもう一度見た。画面の中のニュースキャスターが、「Loss症候群の容疑者として——」と言った。容疑者。その言葉が、灰谷の耳に引っかかった。容疑者は、社会の側から貼られたラベルだった。ラベルの向こうに、灰谷透真という人間がいるはずだった。いるはずの人間の輪郭が、灰谷自身の中で、溶けかけていた。
金を払って、店を出た。出た後で、歩きながら、灰谷は自分の顔を右手で触った。額の形。鼻の高さ。顎の線。触っている顔が、自分の顔であるという確信を、指先から確認しようとした。指先は何も答えなかった。
◇
夜が来た。
廃工場のコンクリートの床に横たわった。天井の穴から、空が見えた。空に雲がなかった。雲のない空の向こうに、星がなかった。
目を閉じた。
閉じた瞬間に、全ての被害者の記憶が、同時に再生された。
宮園の棋譜。三手詰めの問題が、灰谷の視界の左上に映った。織部のチャイコフスキー。ヴァイオリン協奏曲の第三楽章が、灰谷の右耳で鳴った。安藤のサッカー。ボールを蹴る感覚が、灰谷の右足を貫いた。瀬川の水泳。水圧が、灰谷の全身を包んだ。久我山の経営判断。利益計算の数字が、灰谷の額の内側に並んだ。
全てが、同時に。
灰谷は悲鳴を上げた。上げた悲鳴は、コンクリートの壁に反響した。反響した悲鳴は、灰谷の声ではなかった。悲鳴の中に、複数の声が混ざっていた。灰谷の声と、久我山の低い声と、宮園の若い声が、一つの叫びの中で混濁していた。
目を開けた。開けた目の前に、コンクリートの天井があった。天井の穴から、空が見えた。空は暗かったが、暗さの中にも、東京の光害の残光があった。完全な闇にならない空が、灰谷の目に映った。
灰谷は、自分の右手を見た。右手が、コンクリートの床の上で、棋譜を書く仕草をしていた。指が勝手に動いて、将棋の駒の動きを、床の上に描いていた。灰谷は、右手を左手で押さえた。押さえた左手に力を込めた。
「やめろ」
声が出た。声は灰谷のものだった。
「やめろ。俺の手だ」
右手が止まった。止まるまでに、五秒かかった。昨日は三秒だった。制御に必要な時間が、長くなっていた。
壁に書いた「灰谷透真」の文字を、暗闇の中で見た。見えなかった。暗すぎた。見えない壁の上に、自分の名前があることだけを頼りに、灰谷は、もう一度目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、また記憶が来た。今度は一つだけだった。宮園の祖父が、将棋盤の向こう側で、灰谷を見ていた。祖父の目は優しかった。
「お前は、誰だ」
祖父が聞いた。声は穏やかだった。穏やかな声の中に、灰谷が答えを持っていないことを、祖父は既に知っているような響きがあった。
灰谷は答えられなかった。答えを探した。探した場所に、答えはなかった。




