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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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報道――怪物の素顔

 画面の中央に、「公開」のボタンがあった。青い長方形のボタン。その上に、カーソルが重なっていた。カーソルを動かしているのは、黒田の右手の人差し指だった。人差し指が、トラックパッドの上で、微かに震えていた。


 記事のタイトルは、『才能略奪者の素顔——灰谷透真の全記録』。


 十七人の被害者の証言。久我山グループの社内報に残っていた灰谷の写真。才能を奪う前と後の、灰谷の行動の変化を示す時系列データ。全てが、四万字の記事の中に凝縮されていた。


 黒田は、妻と娘を大阪の実家に避難させていた。避難させたのは三日前だった。娘は泣いた。泣いた理由は、転校が嫌だからではなかった。父親の目の下の隈が怖かったからだった。


 クリックした。


 青いボタンが、灰色に変わった。画面に、「公開されました」の文字が表示された。文字を読んだ黒田の胸に、安堵はなかった。安堵の代わりに、冷たい予感があった。予感の正体は、黒田自身にも分からなかった。ただ、何かが不可逆に変わったという感覚だけがあった。


 黒田は、ノートPCを閉じた。閉じた後で、窓の外を見た。東京の朝が、ビルの隙間に広がっていた。朝の光の中で、スマートフォンの通知音が鳴り始めた。一つ。二つ。三つ。通知は止まらなかった。



  ◇



 記事は、二時間で三十万回読まれた。


 テレビ局が反応した。「Loss症候群と呼ばれる特殊事件の容疑者、灰谷透真の過去が——」とニュースキャスターが読み上げた。読み上げられた画面に、社内報の写真が映った。写真の中の灰谷は、久我山グループの戦略室にいる頃の写真ではなかった。それ以前の写真だった。入社直後の、まだ何者でもなかった頃の灰谷透真。目に力がなく、口元が緩く、自信のかけらもない顔だった。


 ネット上に、コメントが溢れた。


 「こんな普通の男が、あの天才棋士の才能を?」


 「この写真と、テレビで見た灰谷って同一人物? 顔が全然違う」


 「大学の同期です。灰谷は目立たない男でした。何一つ秀でたものがなかった」


 同僚の証言がメディアに流れた。大学時代の知人がSNSに投稿した。灰谷透真という人間の「才能略奪前」の姿が、日本中に晒された。


 時系列で並べると、変化は明白だった。前の会社では何年も凡庸な社員だった灰谷が、ある月を境に突然、営業成績が急上昇した。翌月には久我山グループに転職し、三ヶ月目には経営戦略の提案が飛躍的に精密になった。四ヶ月目には、久我山悟の右腕と呼ばれるようになった。


 才能が上昇するたびに、社内の別の誰かが、不可解な能力低下を訴えていた。その符合を、黒田の記事は、一つ残らず拾い上げていた。


 黒田はホテルの部屋で、テレビの報道を見ていた。自分の記事が読み上げられるのを聞いていた。聞きながら、窓の外の東京を見た。東京のどこかに、灰谷透真が隠れていた。黒田の記事が、灰谷の逃走をさらに困難にすることは、黒田自身が最もよく分かっていた。それでも書いた。書かなければならなかった。被害者たちの声を、社会に届けなければならなかった。黒田の手は、もう震えていなかった。


 テレビのコメンテーターが言った。


「才能は、本当に人から人へ移動するのでしょうか。医学的には説明がつかない現象ですが、被害者の証言の一致を見ると——」


 社会が、異能の存在を、初めて真剣に議論し始めていた。



  ◇



 廃工場のコンビニで、灰谷は画面を見ていた。


 コンビニの棚の上に置かれた小さなテレビに、自分の顔が映っていた。今度は、昨日のニュースとは違った。社内報の写真だった。灰谷が知らない写真だった。いや、知っている写真のはずだった。撮影された日の記憶が、あるはずだった。


 なかった。


 記憶の中を探した。社内報の撮影日。スーツを着て、カメラの前に立った日。同僚の笑い声。廊下の蛍光灯。何一つ、浮かんでこなかった。その代わりに、宮園が将棋盤の前で駒を持ち上げる記憶が浮かんだ。安藤がサッカーボールを蹴る感覚が、右足に走った。


 画面の中の男は、灰谷透真だった。灰谷透真のはずだった。しかし、画面の中の男と自分の間に、接続がなかった。他人の人生のドキュメンタリーを見ているような感覚だった。画面の中の男は、入社したばかりの何の才能もない男だった。あの男が自分だった時期が、確かにあったはずだった。あの頃の灰谷透真を、灰谷透真自身が思い出せなかった。


 テレビが、同僚の証言を流していた。「地味で、おとなしくて、印象に残らない人でした」。その言葉を聞いた時、灰谷の中で、何かが軋んだ。軋みの正体は、自尊心ではなかった。自尊心は、もう灰谷の中で機能していなかった。軋みの正体は、存在の基盤だった。地味で、おとなしくて、印象に残らない男。それが灰谷透真だった。その灰谷透真を消すために、才能を奪い続けた。奪い続けた結果、灰谷透真は本当に消えかけていた。


 店員がレジを打っていた。レジの音が、灰谷の耳に入った。音は聞こえていたが、音の意味が一瞬だけ分からなくなった。鶴見の法律知識が「商取引の会計処理音声」と分類し、宮園の思考力が「832+248=1080」と計算した。才能たちが勝手に動いた。灰谷自身は、何もしていなかった。


 金を払って、店を出た。



  ◇



 灰谷隆一は、埼玉の自宅のリビングで、テレビを見ていた。


 画面に、弟の顔が映っていた。社内報の写真。入社直後の、まだ何者でもなかった頃の弟の顔。隆一は、その顔を知っていた。知っているどころか、毎日見ていた顔だった。実家の二階の、六畳の部屋で、兄弟で暮らしていた頃の顔。


 隆一は、テレビから目を逸らした。逸らした目の先に、棚の上の家族写真があった。写真は一枚しか残っていなかった。母親と、隆一と、透真。透真は七歳だった。七歳の透真は、カメラの前で笑っていなかった。笑い方を知らないような顔で、隆一の隣に立っていた。


 隆一は、写真を手に取った。写真の中の弟の顔と、テレビの中の弟の顔を、見比べた。七歳の顔と、入社直後の顔。どちらの顔にも、才能はなかった。才能のない弟の顔を、隆一は覚えていた。


 テレビのキャスターが言った。「容疑者は現在も逃走中で——」


 逃走中。弟が逃走中だった。


 隆一は、写真を見たまま、考えた。弟が逃げる場所。弟が隠れる場所。弟が、追い詰められた時に、無意識に帰る場所。


 隆一には、心当たりがあった。


 幼い頃、弟は、何かあると荒川の河川敷に行った。学校で何かあった日。母親に叱られた日。兄に負けた日。弟はいつも、荒川の河川敷の、橋の下に座っていた。膝を抱えて、川の水面を見ていた。水面に映る空を見ていた。


 荒川。弟の原風景。弟が、世界から逃げる時に帰る場所。


 隆一は立ち上がった。立ち上がった体は、学生時代の水泳で鍛えられた、三十五歳の体だった。弟より大きく、弟より器用で、何をやらせても人並み以上にできた。できることに、隆一は特別な意味を感じたことがなかった。隆一にとって、才能とは当たり前にあるものだった。弟にとっては、人生の全てだった。その違いが、兄弟の間に、渡れない川を作った。


 写真を棚に戻した。戻す時、写真の中の七歳の弟の目が、隆一を見ていた。才能も、野心も、何も持っていなかった頃の弟の目が。あの頃の弟は、兄の隣で黙って立っていた。黙って立っている弟を、隆一はいつも気にしていた。気にしていたが、声のかけ方を知らなかった。今も知らなかった。


 隆一は、コートを取った。

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