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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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地下へ――六本木から奈落へ

 穴から、夜の空が見えた。空には星がなかった。東京の光害が、星を消していた。星の代わりに、遠くのビルの赤い航空障害灯が、瞬いていた。赤い光が、コンクリートの床に、小さな円を描いて落ちていた。


 灰谷透真は、その床の上に横たわっていた。


 荒川沿いの廃工場だった。かつて印刷工場だった建物は、十年以上前に閉鎖されていた。壁にはインクの染みが残っていた。インクの匂いはもう消えていたが、錆びた鉄とカビの匂いが、代わりに建物の中を満たしていた。


 三日前まで、灰谷は六本木のタワーマンションにいた。マンションのリビングには、アロマディフューザーがあった。白檀の香りが、一日中部屋を満たしていた。今、灰谷の鼻に入ってくるのは、錆と黴と、自分の体臭だった。三日間、風呂に入っていなかった。


 逮捕状の執行から三日が経っていた。


 一日目は走った。六本木から渋谷に出て、渋谷の地下通路を通って、恵比寿に抜けた。恵比寿のコンビニで靴と食料を買った。買う時、レジの店員が灰谷の裸足を見た。灰谷は何も言わなかった。金は持っていた。スーツのポケットに入っていた財布に、現金が七万円あった。


 二日目はスマートフォンを壊した。河野の危機管理能力が、位置情報の追跡を警告した。灰谷は荒川の橋の上に立った。スマートフォンを手に持った。画面を見た。画面に、朝比奈からのメッセージの通知が一件、光っていた。メッセージの冒頭だけが見えた。「灰谷くん、無事で——」。それ以上は読めなかった。読もうとした指が、SIMカードを抜いていた。河野の危機管理が、灰谷の意志より先に指を動かした。SIMカードを抜いた本体を、橋の欄干の向こうに投げた。投げた本体が放物線を描いて、荒川の水面に落ちた。水柱が上がった。水柱が消えた。画面の光が沈んだ。朝比奈の文字が沈んだ。灰谷透真と社会を繋ぐ最後の糸が、水の底に消えた。


 三日目の今日、灰谷はこの廃工場に辿り着いた。辿り着いた理由は、分からなかった。久我山の経営判断力なら、もっと効率的な潜伏先を選んだはずだった。河野の危機管理なら、東京を出るべきだと判断したはずだった。


 廃工場を選んだのは、どの才能でもなかった。灰谷透真自身の、何かだった。何かの正体は、灰谷にも分からなかった。


 壁に、古い落書きがあった。スプレーの文字が半分消えていた。残っている文字は、「ここにいた」だった。誰かが、ここに、いた。そして、いなくなった。


 灰谷は、床の上で体を起こした。起こした体が、重かった。重さは、肉体のものではなかった。十七人分の才能が、灰谷の中で、沈殿していた。沈殿した才能は、もう統合されていなかった。かつては俺の中で一つのシステムとして機能していた才能たちが、今は、バラバラの破片として沈んでいた。



  ◇



 食料が必要だった。


 廃工場から最も近いコンビニまで、徒歩で十五分だった。灰谷は夜になるのを待って、廃工場を出た。


 山谷のドヤ街の近くだった。路上に、日雇い労働者が何人かいた。缶ビールを飲んでいる男。段ボールの上に座っている男。誰も、灰谷を見なかった。見ないことが、この場所の作法だった。


 コンビニに入った。おにぎりとペットボトルの水を三本、カゴに入れた。レジに向かった。レジの前で、灰谷の口が開いた。


「すまんな、釣り銭を細かくしてもらえるか」


 出た声は、久我山の声だった。関西弁だった。灰谷の口から出るはずのない関西弁が、店員の前で鳴った。


 店員が、灰谷を見た。見た目に、不審の色はなかった。関西弁の客は珍しくなかった。


 灰谷は金を払って店を出た。出た後で、自分の口を手で押さえた。押さえた手が震えていた。


 久我山の口調が出た。自分の意志ではなかった。久我山の経営判断力の中に含まれていた、久我山の言語パターンが、灰谷の口を使って勝手に発話した。以前にも指が勝手にピアノを弾いたことがあった。織部の記憶の漏出だった。今回は、声が漏出した。


 廃工場に戻った。おにぎりを食べた。食べながら、灰谷は自分の手を見た。右手の手のひらの中央に、器があった。器は閉じていた。閉じた器の中に、十七人分の才能が詰まっていた。十七人分の才能は、もう灰谷の道具ではなかった。灰谷が才能の容れ物になっていた。


 おにぎりの味は、料亭の名人の味覚が自動的に分析した。コメの品種。海苔の等級。梅干しの塩分濃度。全てが数値として舌の上に並んだ。数値は正確だった。正確な数値の先に、美味いという感覚は、なかった。美味さは数値の外にあった。数値の外にあるものを、灰谷はまだ持っていなかった。持っていないことに、以前は苛立ちを感じた。今は、苛立ちすら薄かった。


 食べ終わった。ペットボトルの水を飲んだ。水は常温だった。常温の水が喉を通る感覚だけが、この夜の中で、確かなものだった。


 廃工場の隅に、古い事務机が一つ残っていた。引き出しは全て抜かれていた。机の上に、埃が三センチ積もっていた。灰谷は机の上の埃を手で払った。払った手の指が、机の表面に文字を書き始めた。書いた文字は、「灰谷透真」だった。書いた直後に、指が止まった。止まった理由は、書いた名前に違和感を覚えたからだった。自分の名前なのに、他人の名前のように見えた。


 指がまた動いた。今度は、「久我山悟」と書いた。書いたのは、灰谷の意志ではなかった。書いた後に、「宮園春人」と書いた。それも灰谷の意志ではなかった。指が勝手に動いて、奪った人間たちの名前を並べていた。


 灰谷は手を止めた。止めるのに、三秒かかった。


 コンクリートの床に横になった。天井の穴から、空が見えた。空は暗かった。


 目を閉じた。閉じた瞼の裏で、灰谷は自分の名前を呼んだ。


 灰谷透真。


 灰谷透真。


 灰谷透真。


 三回呼んだ。一回目は、自分の名前だという感覚があった。二回目は、名前の響きが少し遠くなった。三回目は、それが自分の名前なのかどうかが、分からなくなった。三回目の「灰谷透真」は、知らない人間の名前を読み上げているような感触だった。


 恐怖が来た。恐怖は、河野のものでも久我山のものでもなかった。灰谷透真自身の恐怖だった。自分が自分でなくなっていく恐怖。それだけが、灰谷のものだった。


 眠りに落ちた。


 落ちた先で、夢を見た。夢の中で、灰谷は将棋を指していた。指していた相手は、祖父だった。祖父の顔は優しかった。優しい顔が、灰谷に微笑んでいた。


 灰谷には祖父がいなかった。これは宮園の記憶だった。宮園の祖父との記憶が、灰谷の夢の中に、自分の記憶として再生されていた。


 夢の中で、灰谷は幸せだった。幸せの中に、宮園の祖父の手の温かさがあった。温かさが胸に広がった。広がった温かさの中で、灰谷は思った。


 これは俺の記憶じゃない。


 でも、俺の記憶より、温かい。


 俺の記憶は、どこにいった。埼玉の安アパートの、二階の角部屋。母親の台所。兄の背中。コンビニ弁当の匂い。あったはずの記憶が、宮園の祖父の微笑みの下に沈んでいた。沈んだ記憶は、もう浮かんでこなかった。


 夢の中で、宮園の祖父が言った。


「透真くん。君は誰だい?」


 透真。


 その名前は、宮園の祖父が呼ぶ名前ではなかった。宮園の祖父が呼ぶのは「春人」だった。夢の中の祖父が「透真」と呼んだのは、灰谷の意識が、宮園の記憶の中に、侵入しているからだった。


 目が覚めた。


 コンクリートの天井が、暗く、冷たく、灰谷の上にあった。穴から見える空は、まだ暗かった。灰谷は、自分の顔を両手で覆った。覆った手のひらの中で、涙が出た。涙の理由は、分からなかった。悲しいのか。怖いのか。それとも、宮園の祖父の温かさが、あまりにも美しかったからか。


 涙は、誰の涙だったのか。灰谷にも、分からなかった。

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