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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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逮捕状――崩れ落ちる玉座

 叩く音ではなかった。破る音だった。


 灰谷透真は、ソファの上で目を開けた。開けた目に、天井の照明が白く映った。白い光の中に、十七人分の記憶が、まだ走っていた。昨夜の床の上で見た走馬灯の残像が、覚醒した脳の中で止まらなかった。


「警察です。開けてください」


 真壁の声だった。


 声を聞いた瞬間に、河野の危機管理能力が計算した。令状がある。任意ではない。ドアの向こうに複数の足音。最低四人。鶴見の法律知識が補足した。逮捕状の執行は日出後から日没前。午前六時は適法。逃走の選択肢を、久我山の判断力と宮園の思考力が同時に探した。


 二つの才能が、同じ答えを出した。


 非常階段。


 灰谷は立ち上がった。立ち上がる動作の中に、安藤の運動能力が残っていた。残っていたが、昨夜の暴走の後遺症で、動きが鈍かった。鈍い体で、リビングの窓を開けた。窓の外に、六本木の朝の空気が流れ込んだ。


 空気は冷たかった。冬の朝の空気だった。


 ドアが蹴られた。蝶番が軋む音がした。灰谷は窓から非常階段に出た。出た瞬間に、足元のコンクリートの冷たさが裸足の足裏に刺さった。靴を履く時間はなかった。


 非常階段を駆け下りた。三十二階から。階段の手すりが、朝日を受けて冷たく光っていた。手すりに触れた右手が、反射的に開いた。器が開いた。開いた器を、灰谷は閉じた。今は喰う場面ではなかった。今は逃げる場面だった。


 二十階を過ぎた時、上から足音が追いかけてきた。複数の足音。靴底がコンクリートを叩く乾いた音。


 十五階で、灰谷の頭の中に久我山の声が響いた。


 『地下駐車場に出ろ。車は使うな。徒歩で裏口から抜けろ』


 同時に、宮園の思考力が別の指示を出した。


 『エレベーターホールに出て、住民の出勤に紛れろ。群衆に溶けるのが最善手だ』


 二つの指示が、灰谷の足を止めた。止まった時間は、一秒だった。一秒の判断遅延。以前の灰谷なら、十七の才能を瞬時に統合して最適解を出せた。今は、才能同士が干渉して、判断が割れた。


 一秒の隙に、上の足音が近づいた。


 灰谷は走った。走った先は、地下駐車場だった。久我山の判断を選んだのではなかった。体が勝手に選んだ。安藤の運動本能が、開けた空間より閉じた空間を選んだ。


 地下駐車場に出た。コンクリートの天井が低かった。車が並んでいた。朝の六時の駐車場は、まだ暗かった。蛍光灯が二本だけ点いていた。


 裏口から出た。裏口は、ゴミ収集車が使う搬入口だった。搬入口の扉を開けた時、朝日が灰谷の顔を照らした。照らされた顔が、搬入口の鉄扉のガラスに映った。映った顔は、灰谷透真の顔ではなかった。一瞬だけ、久我山の顔に見えた。久我山の鋭い目が、ガラスの中から灰谷を見ていた。


 ガラスから目を逸らした。走った。


 六本木の裏路地を走った。裸足で。アスファルトの冷たさと、小石の痛みが、足裏に刺さった。痛みは、灰谷のものだった。痛みだけが、灰谷透真のものだった。他の全ては、借り物だった。


 走りながら、灰谷は考えようとした。考えようとした頭の中で、宮園の思考力と梶原の政策立案能力と鶴見の法律知識が、三つの方向から三つの逃走計画を提示した。三つの計画は、どれも精密で、どれも矛盾していた。矛盾を統合する機能が、壊れていた。


 走ることだけが、統合を必要としなかった。走ることは、安藤の体一つで完結した。


 路地を曲がった。曲がった先に、コンビニの明かりが見えた。コンビニの窓ガラスに、灰谷の顔が映った。映った顔は、さっきとは違う顔だった。今度は宮園の顔に見えた。二十一歳の、少年のような顔が、三十二歳の灰谷の輪郭の中に浮かんでいた。


 コンビニの前を通り過ぎた。通り過ぎる時に、防犯カメラのレンズが灰谷の顔を捉えた。捉えた映像の中で、灰谷の表情は、走るたびに微妙に変化していた。目の鋭さが久我山になり、口元の緊張が鶴見になり、額の汗の拭い方が安藤になった。一人の人間の顔の上を、複数の人格が、影のように通り過ぎていた。


 裏路地を抜けた。抜けた先に、大通りが見えた。大通りには、まだ車が少なかった。朝の六時十分。通勤ラッシュの前だった。


 大通りを横切ろうとした。横切ろうとした足が、止まった。止まった理由は、足裏の痛みではなかった。灰谷の視界が、一瞬だけ、暗転したのだ。暗転の中で、織部のヴァイオリンの旋律が、頭蓋骨の内側で鳴った。旋律は三秒で消えた。消えた後に、視界が戻った。戻った視界の中で、朝の東京が、ビルの谷間の向こうまで広がっていた。


 かつて、この街を見下ろしていた。タワーマンションの三十二階から。帝国ホテルの最上階のバーから。久我山グループの十七階の戦略室長室から。見下ろしていた街を、今は裸足で走っていた。走りながら、見上げていた。


 ビルの谷間を走り抜けた先に、公園の入口が見えた。公園の方角に、灰谷の足が向いた。向いた理由は、灰谷の意志ではなかった。宮園の記憶か。安藤の記憶か。あるいは、灰谷透真自身の、もう消えかけた記憶の残滓か。


 灰谷は公園に入らなかった。入らなかったのは、河野の危機管理能力が「人目のない場所は袋小鼠」と計算したからだった。灰谷は公園の脇を通り過ぎ、住宅街の路地に入った。路地の先に、高架下のスペースがあった。ダンボールハウスが二つ。灰谷はそこを通り過ぎた。通り過ぎる時に、ダンボールの中の人間が、灰谷の裸足を見た。見て、何も言わなかった。東京の早朝に裸足で走る男は、この街では、珍しくなかった。



  ◇



 同じ朝。


 真壁蓮司は、灰谷のタワーマンションのリビングに立っていた。


 部屋は空だった。ソファの上に、灰谷が寝ていた痕跡があった。毛布が床に落ちていた。テーブルの上に、昨夜のコーヒーカップが一つ残っていた。カップの中のコーヒーは冷めていた。冷めたコーヒーの表面に、薄い膜が張っていた。


 窓が開いていた。非常階段への窓。冬の風が、部屋の中に吹き込んでいた。


「逃げたか」


 真壁の声は、平静だった。平静の下に、苛立ちがあった。苛立ちの奥に、予感があった。灰谷が逃げることは、予測の範囲内だった。予測の範囲内であっても、逃がしたことには変わりなかった。


 氷室が、スマートフォンを持って真壁に近づいた。


「周辺の防犯カメラを確認しています。六時四分に、ビルの搬入口から裸足の男が出ている映像がありました」


「顔は」


「確認できます。ただ——」


 氷室の声が、一瞬だけ、途切れた。途切れることは、氷室にとって珍しかった。


「真壁さん。カメラの映像を見てください」


 氷室がスマートフォンの画面を真壁に向けた。画面の中に、搬入口を出る男の姿があった。男の顔は灰谷だった。灰谷のはずだった。


 しかし、映像の次のフレームで、男の顔が変わった。変わったのは表情ではなかった。輪郭が、一瞬だけ、別の人間のものになった。鋭い目。広い額。久我山悟の顔の特徴が、灰谷の顔の上に、重なって消えた。


「何だ、これは」


「分かりません。映像の乱れかもしれません。しかし、三台のカメラで同じ現象が確認されています」


 真壁は、画面を見た。画面の中の灰谷は、裏路地を走っていた。走る灰谷の顔が、フレームごとに、微かに、違う人間に見えた。


 真壁は画面から目を上げた。上げた目で、窓の外の六本木の朝を見た。朝の光が、ビル群の谷間を照らしていた。


「全署に手配を出せ。灰谷透真。三十二歳。裸足。顔の特徴は——」


 真壁は、一瞬だけ、言葉を止めた。


「顔の特徴は、変わる可能性がある」


 氷室は、眼鏡の奥で真壁を見た。見た目の中に、疑問はなかった。九ヶ月間、異能犯罪を追ってきた二人には、もう驚きの閾値が変わっていた。


 真壁は、灰谷のリビングの窓際に立った。窓から見下ろす六本木の街は、朝の光の中で、普通の東京の朝だった。普通の朝の中に、十七人分の才能を抱えた怪物が、裸足で走っていた。

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