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30  ありがとうございます


「火事だーーー!!」


 遠くから叫び声が響き、森の向こう側がにわかに騒がしくなる。


 後ろを振り返ると、来た道の先の空が赤く染まっている。爽やかな朝日などではない、燃え上がる赤黒い煙。火の手が上がっているのは、屋敷がある方向で間違いない。


「あの屋敷には、皇后陛下が……!」

「待ちなさい」


 来た道を戻ろうとするアイリスを、ライラは鋭く声をかける。


「その皇后自身が、お前を逃がすと決めたのよ」

「そう、ですが……!」

「わかっているなら、その意思を無駄にしないことね」


 ライラの冷たい声に、アイリスは唇を噛み締める。それでも、もう戻るとは言わなかった。後ろにアイリスが着いてくるのを確認してから、ライラは進める足を速めた。


(だから“迎えにきた”と言ったのね)


 亡き母――アリシアの名前を呼んで、涙を流していた皇后。屋敷に来た時にはもう、自分の命を終わらせると決めていたのだろう。その道連れを求めていたところに、アリシアの生き写しから叱咤を受けて、考えを改めた。


 自分は比肩なき皇后であり、皇帝の愛人など道連れにはしないのだと。


 自ら命を手放すのは愚かではあるが、それが皇后なりの誇りの守り方だったのなら……ライラも少しは気持ちが理解ができる。それほどに高貴なる者が守るべきものは、重たい。


 復讐の代わりに“呪い”を選んだ皇后を想いながら、ライラはひたすら足を進めた。





「お、お嬢様! どうにも城の中が騒がしくて……」


 警備が手薄になっている裏門から抜け出すと、うろたえた御者が近づいてくる。その御者にアイリスを押し付けたライラは、短く命じた。


「今すぐカイロス公爵領へ向かいなさい」

「え!? あの、どえらい貴族様の領地ですかい」


 公爵が「どえらい」ことは間違いないので、ライラは「そうよ」と答えてやる。


「領地に着き次第、馬車と馬は売りなさい。それが最後の給金よ」


 売れば庶民ならしばらく暮らせる程度の資金にはなるだろう。馬と馬車を見て「これを!?」と目を剥いている御者を横目に、ライラはアイリスに向き直る。


「いいこと? なにかあったらくだらない意地を張らず、公爵家を頼りなさい」


 アイリスの手を取り、そして――皇家の紋章が入った指輪をしっかりと握らせる。


「勝手に死んだりしたら、許さないんだから」


 アイリスの遺品としてライラの手に渡った指輪だ、こうして手渡すのが正しいはず。


 しかし証となる指輪を渡したところで、アイリスは公爵家を頼らないのだろう。今ここにいるライラがアイリスと出会っていないのが、なによりの証拠――つまり、これが二人にとって今生の別れとなる。


 それをわかっているはずのアイリスが、ライラの言葉をどう受け取ったのかはわからない。ただ指輪を胸の前でギュッと握りしめて、潤んだ目でライラを優しく見つめた。


「ありがとうございます、ライラ様」


 微笑むアイリスの顔を目に焼き付けてから、ライラは御者を扇で叩く。


「さあ、とっとと出なさい! 無事に送り届けなければ、見つけ出して吊るすわよ」

「ひえぇ、最後の最後まで横暴だぁ……」


 情けない悲鳴を上げた御者に促され、馬車に乗ったアイリスの姿が見えなくなる。動き出した馬車が遠のいていくのを見つめていると、ライラの意識もフッと遠のいていった。


(ああ……“戻る”のね)


 過去に来た時にも感じた視界の揺らぎに目を閉じると、ライラの意識はかき消えた。


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