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29  帝国の皇后


 空が白みはじめ、さえずる鳥たちが森の木々から飛び立っていく。


 ライラとアイリスは屋敷の入口にほど近い窓から、兵士が持ち場を離れるのを確認した。これからしばらくの間、屋敷周辺の巡回のために入口の警備に穴ができる。


 アイリスに目線をやると「今です」と頷き返され、ライラは扉を開け放った。


「……外の、空気」


 屋敷から出たアイリスが嘆息するのを聞きながら、ライラは周囲を見回す。まだ日が昇る前の薄暗い森の中には、当然ながら人影はない……はずだった。


「やっとでてきた」


 ぬらり、と森の中から女が出てくる。その声は掠れて、髪も乱れているのに、目だけはギラギラと光って見える。その視線はライラを通り越し、まっすぐにアイリスを捉えていた。


「皇后、陛下……!?」


 驚愕したアイリスの声に、ライラはその女をもう一度見た。


 夜風になぶられたのか広がった髪に、みっともなく乱れた服装、そして血走った目。とても皇后には見えない女だが、見知ったアイリスが言うならば間違いないのだろう。


「そなたさえ、いなけれえば」


 皇后は一歩、また一歩とアイリスに近づいていく。


「陛下も、殿下も……妾が愛した人たちは、妾を見てくれたはずなのに」


 乱れた髪の間から覗く目は狂気に支配されて、声は醜く淀んでいる。


「そなたは、妾が欲しい愛をすべて奪っていく」


 近づいてくる女から目を逸らさないまま、アイリスは苦しげに顔を歪めた。


「妾はもう、この城にしか居場所がないのに」


 愛と執着に囚われた女は、皇后という立場にも囚われ、どこにも逃げ場がない。同じく権力に自由を奪われたアイリスには共感する部分があるのか、胸を押さえて動けずにいる。


 そんなアイリスに掴みかかろうとする皇后の手を、ライラは扇でバシッと強く叩いた。


「帝国の皇后ともあろうものが、みっともない」


 冷え切った声に、皇后の動きが止まる。ライラは腕組みをして、顎を上げた。


「皇后とは帝国でもっとも高貴なる女性よ。その上に立つ女など、存在してはならない」


 だからこそ、至上の令嬢であるライラが相応しい。悋気に狂った愚かな女や、微笑むばかりの成り上がり女などがライラを押しのけて立つなど、あまりに許し難いことだ。


「頂点に立つ自覚を持ち、常に尊大に、そして優雅に振舞いなさい」


 自身の憤りを盛大にぶつけたライラを、皇后はぼんやりと見つめた。


「……アリシア、様?」


 皇后の淀んでいた目にライラが映り、頬を一筋の涙が零れ落ちた。


「妾を迎えに来てくださったのね」


 そう言って、皇后は顔を両手で覆った。勝手に納得されてしまったが、アリシアは母の名前だ。恐らく二人には面識があり、ライラとアリシアを勘違いしているのだろう。


(都合がいいから、勘違いさせておきましょう)


 そう決めたライラが「そうよ」と胸を張ると、皇后は涙を拭いて顔を上げる。


 その顔はすっきりとしており、目には強い意思の光が見て取れた。乱れた髪を軽く整える様子に、先ほどまでの狂気は感じられない。そして理知的な目が、再びアイリスを捉える。


「二度と、皇城に……帝都に戻ることは許さない」


 その冷酷無比な命令には確かに、帝国の皇后たる威厳が感じられた。アイリスも威圧されたように息を飲み、そして「承りました」と深々と頭を下げた。皇后は頷き、続けた。


「妾は、陛下を……そして、そなたを呪うだろう」

「わたしでよければ、いかようにでも呪ってください。それで皇后陛下の御心が少しでも晴れるのであれば」


 恐ろしい皇后の言葉にも目をそらさず、アイリスはいつになく力強く返した。


「……だからそなたは、愛されるのね」


 小さく呟いた皇后は、そう言ったきり背を向けた。


「早く行きなさい、衛兵は妾が引きつけておく」


 皇后の背中はそれ以上の問いかけを拒絶していた。そのまま一人で薄暗い屋敷に入っていく。その背中をいつまでも物言いたげに見つめるアイリスの腕を、ライラは強く引いた。


「さあ、行くわよ」


 我に帰って頷いたアイリスを連れ、ライラは薄暗い森へ歩みを進めた。


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