第099話:シエルとルシアの栄養学バトルと恋の鞘当て
地下75階の特設炊事場から立ち上る、温かい出汁の湯気と食欲をそそる香り。
10万人の現場男たちが煮込みうどんを貪り食う喧騒から少し離れた、資材木箱の特等席。
アレク・ユグレットは、作業着の袖をまくり、同じ土鍋風の丼を手に静かにうどんをすすっていた。
その隣には、丼を綺麗に飲み干して豪快に髭を拭うドワーフのバルガン親方と、ドワーフ特製黒エールの樽を抱えた工兵たちが腰掛けていた。
「ズズッ……ズズズッ……」
アレクは最後の一滴まで汁を飲み干すと、丼を膝の上に置き、真顔のまま小さく息を吐いた。
「……美味いな。塩分濃度0.9パーセント。人間の体液と等張に近い浸透圧設計だ。さらに、舞茸に含まれるグアニル酸と乾燥昆布のグルタミン酸による相乗効果、小麦粉のグルテンによる炭水化物、ヘルハウンド豚肉のビタミンB1が完璧に計算されている。過酷な肉体労働によって激減した筋グリコーゲンを最速で再充填させ、血中乳酸値を速やかに代謝させる極めて合理的な配合設計だ」
アレクが一切の感情を交えず、淡々と化学式のような感想を呟くと、隣のバルガン親方が豪快に吹き出した。
「がっはっは! てめえは相変わらず、極上の飯を食っても計算式しか出てこねえ野郎だな、アレク! だがよ、あのお嬢ちゃんたち、大したモンだぜ。10万人もの荒くれ者の胃袋を、たった一杯のうどんで完全に掌握しやがった。現場を支えるのは鉄骨やボルトだけじゃねえ。あの温かい湯気こそが、一番頑丈な基礎なんだよ!」
「まったくだ」と、若草の風のレオも空になった丼を掲げて笑った。
「飯が不味い現場は必ず事故が起きるって、親父さんたちも言ってました! こんな美味い飯を食わせてもらえるなら、明日の削孔作業だって誰一人として手抜き工事なんかしませんよ!」
「ピキュッ!」
アレクの足元で、うどんの端切れと舞茸の小片を美味しそうに取り込んだスライムのポチが、満足そうに丸っこい体をポヨンと震わせて跳ねた。
そこへ、少し照れくさそうにしたルシアが、お盆に湯呑みを載せておずおずと歩み寄ってきた。
「あ、あの……アレク主任。お口に……合いましたでしょうか……? 魔界の舞茸を使ったので、人間の方には少し苦味が強かったりしないか心配で……」
ルシアは黄色いヘルメットを胸に抱き、耳の先まで真っ赤にして上目遣いにアレクを見つめた。
アレクは丼を置き、ルシアの真っ直ぐな瞳を静かに見つめ返した。
「苦味など微塵もない。舞茸の野性味が昆布出汁の輪郭を完璧に引き締めている。素晴らしい現場飯だ。ルシア、お前のこの炊事管理のおかげで、明日の部隊全体の施工効率は間違いなく二割向上し、注意力散漫による事故事例はゼロに抑えられる。現場監督として、心から感謝する」
「主任……! えへへ、よ、よかったです……! 主任にそう言っていただけるのが、私、一番嬉しいです……!」
ルシアは胸元で小さな両手をぎゅっと握りしめ、角を赤く染めてフニャフニャと蕩けるように微笑んだ。
完全に恋する乙女の顔である。
だが――その甘い空気を許さない影が、音もなく滑り込んできた。
「主任、食後の胃腸を整える薬草茶もお淹れしましたよ!」
シエルであった。
眼鏡をキランと光らせたシエルが、湯気立つ特注の急須をアレクの前にスッと差し出し、ルシアとアレクの間に割って入った。
「ルシアさんのうどんも素晴らしいですが、急激な糖質摂取は血糖値の乱高下を引き起こすリスクがあります! それを防ぐためには、このギルド秘伝のギムネマと桑の葉をブレンドした特製薬草茶による糖吸収コントロールが不可欠です! どうぞ、先輩!」
「むっ……! シエルさん、さっきから主任の健康管理にかこつけて、私と主任の会話に割り込んできてませんか!?」
ルシアが頬を膨らませて抗議した。
「割り込みではありません! 私はアレク主任の一番弟子にして現場専属の首席監査官です! 主任の生体データを最適に保つのは私の公務です!」
「公務を口実に主任を独占しようとしてます! 私だって、魔王軍営繕課の正式な駐在官なんですから、主任のお世話をする権利があります!」
「お世話ではなく業務補佐です! それに、うどんの出汁を取ったのはルシアさんですが、麺の茹で加減をアルデンテに完璧に仕上げたのは私ですよ!」
「なんですって!? 出汁の調合こそが料理の命ですーっ!」
パチパチパチ……!
二人の美少女の間で、目に見えるような火花がバチバチと散った。
金髪のハイエルフ令嬢と、紫髪のサキュバス令嬢。
種族を超えてアレクの隣の指定席を巡って張り合う二人の姿に、周囲でうどんをすすっていた作業員たちから、ニヤニヤとした温かい笑い声が漏れた。
「へへっ、アレクの野郎、世界を救う突貫現場のど真ん中で両手に花じゃねえか」
エドワードが空の丼を持ってやってきて、羨ましそうに口を尖らせた。
「オレなんか、勇者時代にあんな可愛い子たちに囲まれたこと一度もねえぞ!」
そこへ、白と薄緑のシスター服の上から黄色いヘルメットを被った聖女リリアナが、お盆に空の器を山積みに載せて歩いてきた。
「あら、エドワード様? 何か仰いましたか?」
「ひっ……! リ、リリアナ……!」
エドワードがビクッと肩を跳ね上げる。
リリアナはおっとりとした菩薩のような笑顔を浮かべながら、氷のように冷たい言葉をサラリと放った。
「エドワード様が女性に囲まれなかったのは、当たり前ではありませんか。傲慢で、人の話を聞かず、借金ばかり作って周囲に大迷惑をかけるようなゴミ物件を、誰が好き好んで選ぶというのです? アレク主任のように、誰よりも人の命を大切にし、定時にきっちり仕事を終わらせる誠実な大人の男性だからこそ、シエルさんもルシアさんも惹かれるのですよ♡」
「ゴ、ゴミ物件……!?」
エドワードの胸に、リリアナの笑顔の毒矢が深々と突き刺さった。
「うぐっ……! だ、だがオレだって、さっき幅80メートルの谷にトラス橋を架けたんだぞ……!」
「はいはい、お疲れ様でした。エドワード様には、こちらの冷え切った麦茶の出涸らしと、うどんの切れ端を恵んで差し上げますね♡ さあ、残飯処理のお仕事ですよ♡」
「残飯処理扱いかよォォォッ!!」
頭を抱えて崩れ落ちる元勇者に、ドワーフのバルガン親方と職人たちが腹を抱えて大爆笑した。
「がっはっは! リリアナの姐御の毒舌は相変わらずキレッキレだな!」
「エドワード棟梁、色恋沙汰なんざ100年早えですよ! ラチェット握って足場組んでる方が百倍カッコいいっす!」
大笑いする職人たち。
火花を散らしながらお茶とタルトを差し出そうとするシエルとルシア。
その賑やかな宴の中心で、アレク・ユグレットは懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
「現在時刻23時40分。就寝点呼まであと20分だ」
アレクは平然とお茶を受け取り、一気に飲み干した。
「シエル、ルシア。どちらの栄養補給も極めて合理的だった。二人とも優秀な補佐官だ。……ただし、夜更かしは明日の作業効率低下を招く。全員、丼を片付けたら速やかに仮設テントへ引き上げ、きっちり6時間の睡眠を確保しろ。睡眠不足は安全規程違反で減点だ」
「「は、はいっ!」」
アレクのブレない一言に、シエルとルシアは顔を見合わせてクスリと微笑み、仲良く片付けへと戻っていった。
過酷な暗黒と突風を乗り越えた地下75階の仮設基地。
十万個の篝火が揺れる中、職人たちは温かい飯に満たされ、毛布にくるまって泥のような心地よい眠りについた。
明日はいよいよ、地下80階――世界の心臓部へと続く『中間前線兵站基地』の大規模設営が待っている。
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