第098話:ルシアの野戦炊事:10万人のスタミナ煮込みうどん
地下75階、暴風雨が鎮静化したばかりの巨大回廊。
風圧との死闘、削岩とレール敷設を終えた10万人の作業員たちは、全身を汗と煤と岩粉にまみれさせ、文字通り泥のように仮設ベンチや資材のスノコの上に倒れ込んでいた。
「ふうーっ……! 指1本、爪の先一つ動かねえ……」
「風圧に抗いながらのアンカー打ちは、ドラゴンと素手で殴り合うよりスタミナを消費するぜ……」
「喉がカラカラだ……。胃袋が背骨に張り付いて、意識が遠のきそうだ……」
王国の屈強な重装騎士も、魔王軍の筋骨隆々なオークたちも、等しく肩を落として深い息を吐き出していた。
時計の針は深夜23時を回っている。
どんなに士気が高く、互いに背中を預け合おうとも、極限の肉体労働が連続すれば身体は確実に悲鳴を上げ、血糖値は底を突く。
土木現場における最大の敵は、モンスターなどではない。過労と空腹が引き起こす、一瞬の不注意による重大事故――すなわち『低血糖による注意力散漫』なのだ。
そんな重苦しい疲労と静寂が支配していた回廊の一角から、突如として――。
パチパチパチ……ジュウウウウッ!
炭火の爆ぜる心地よい音とともに、暴力的なまでに食欲を刺激する芳醇な香りが漂ってきた。
極上の焼き干しと乾燥昆布を思わせる濃厚な和風出汁の香りに、魔界特産の香草と甘辛い熟成醤油ダレがジュワリと焦げる、えも言われぬ至福の匂いである。
「……ん? なんだ、この途方もねえ匂いは……?」
「鼻腔が……俺の鼻腔が直接脳髄を揺さぶられてるぞ……!」
「グウウゥゥゥッ……! 腹が……胃袋が今までにない音を立てて鳴りやがった!」
仮設ベンチに突っ伏していた職人たちが、匂いに操られるゾンビのように一斉に顔を跳ね上げた。
匂いの発信源は、十数個の大鍋が猛烈な白煙を立ち上らせている特設の『合同野戦炊事場』だった。
黄色い安全ヘルメットをきっちり被り、トレードマークの桃色のフリル割烹着を身にまとったサキュバス令嬢ルシアが、大人用の身の丈ほどもある巨大な樫の木べらを両手で力いっぱいに振るっていた。
その隣では、冒険者ギルドの制服の上から防水エプロンをきりりと締めたシエルが、巨大な特注平釜の沸騰した熱湯の中に、極太の麺を一気に踊らせている。
「作業員の皆様、大変お疲れ様でしたーっ! 本日の合同夜食メニューは、魔王軍兵站補給部と冒険者ギルド業務課の共同開発――名付けて『魔界漆黒舞茸と人類根菜の特製スタミナ合同煮込みうどん』です!!」
ルシアの鈴を転がすような、それでいて芯の通った元気いっぱいの声が、広大な地底回廊の隅々まで響き渡った。
「本日風洞で過酷な作業に従事された皆様全員に、熱々の特盛りでお配りします! 整列して、一人ずつ丼を受け取ってください! おかわりもたっぷり用意してありますよ!」
シエルが爽やかな事務官スマイルを浮かべ、湯気を吹き出す巨大な丼をカウンターに並べていく。
「うおおおおっ! 飯だ! 夜食だーっ!」
10万人の現場男たちが、まるで地鳴りのような歓声を上げて炊事場へと殺到した。
しかし、通路の頭上に掲げられた『歩行帯厳守・駆け足禁止』の黄色い標識を見るや、即座に整然とした四列縦隊を形成する。彼らの身体には、すでにアレクの安全管理規程が骨の髄まで染み込んでいた。
手渡された土鍋風の深鉢の中には、純白にして力強い弾力を誇る極太の手打ちうどんが波打っていた。
その上には、黄金色に澄んだ熱々の濃厚出汁をたっぷりと吸い込み、限界まで膨らんだ極厚のきつね揚げ。
さらに、魔界の深層でしか採れない滋養強壮の極致『漆黒舞茸』をカリッと揚げた拳大の天ぷらが豪快に二枚。
じっくりと秘伝ダレで三昼夜煮込まれ、箸で触れただけでホロリと崩れるヘルハウンド肩ロース肉の角煮チャーシュー。
仕上げに、シャキシャキの刻み地底葱と、すりおろしたての黄金生姜、そしてピリリと辛い魔界七味唐辛子が彩り鮮やかに散らされている。
「う、うおおおお……! ずっしりと重い! この一杯で一日分のカロリーが詰まってやがる!」
「いただきますっ! ……ズズッ、ズズズズズッ!」
最前列で受け取った巨漢のオーク戦士が、震える手で丼を持ち上げ、熱々の黄金スープを一気にすすり込んだ。
その瞬間、オークの黄色い瞳が見開かれ、ボロボロと滝のような大粒の涙が頬を伝い落ちた。
「ぎゃああああっ! う、美味い……! なんだこれは……!? スープが、出汁が、全身の毛細血管と五臓六腑の隅々にまで電撃のように染み渡っていく……!」
「麺を噛んだ瞬間のコシがすげえ! モチモチなのに跳ね返してきやがる! 小麦の甘みと、舞茸の野性味あふれる旨味が口の中で大爆発だ!」
「このチャーシューを見ろよ! 口に入れた瞬間にとろけて肉汁が溢れ出すぞ! 生姜の辛味が疲れた胃袋をカッカと熱くしやがる!」
「美味え……美味えよ母ちゃん……! こんな贅沢で心に染みるメシ、魔王領の過酷な兵営でも、王都の高級酒場でも食ったことがねえ!」
重装歩兵の騎士が、隣のオークの肩を抱き寄せながら豪快に笑い、丼を掲げ合ってスープを飲み干す。
「おい魔族の旦那、生姜をもっと足すと身体の芯から汗が出て最高だぞ!」
「おうよ人間の兄ちゃん! 舞茸天ぷらにスープをたっぷり吸わせてから食うのが一番の贅沢だ!」
かつて命のやり取りをしていたはずの種族の壁は、一杯の温かい煮込みうどんの前で完全に霧散していた。
「ふふっ……! みんな、すっごく美味しそうに食べてくれてる……!」
ルシアは額に浮かんだ玉の汗を割烹着の袖で拭いながら、胸がいっぱいの表情で笑みをこぼした。
そこへ、腰に真紅の安全帯とチタンラチェットレンチを光らせたエドワードが、空になった丼を両手に持って小走りで駆け寄ってきた。
「ルシアちゃん、シエルちゃん! オレにも特大メガ盛りで頼む! 風洞の真ん中で吹き飛ばされそうになりながらアンカー50本も叩き込んだんだ! 胃袋が背骨に張り付いて倒れそうだったぜ!」
「はい、エドワード棟梁! 特別に舞茸天ぷら三枚乗せ、チャーシュー増し増しでお作りしました!」
「うひょおおおっ! これこれ! これぞ現場の命綱だ! ……ズババババッ! ンガッ、ゴクン……! う、美味すぎるッ! この塩気と出汁のパンチ力、完全に現場の職人が何を求めてるか分かり尽くしてやがるぜ!!」
ものすごい勢いで麺を吸引していく元勇者に、シエルが苦笑しながら瓶入りの滋養強壮ドリンクをコトリと差し出した。
「エドワード棟梁、勢いよく食べるのは結構ですが、よく噛んでくださいね。喉に詰まらせたら労働災害になりますから。それと、このビタミン高濃度配合ドリンクも飲んでください。明日は地下80階への前線基地設営なんですから」
「おうともよ! このうどん鉢一杯で、オレの魔力タンクは満タンだ! 明日も突風だろうが、笑いながら足場単管を組み上げてやるぜ!」
エドワードは満面の笑みで親指をグッと突き立てた。
10万人の職人たちが、温かい湯気に包まれながら笑顔で丼を空にしていく。
過酷な暗黒と熱風を克服した地底回廊に、人間と魔族の確かな絆が、一杯の現場飯を通じて深く、熱く刻み込まれていた。
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