第096話:エドワードの空中綱渡りとカンチレバー工法
地下70階、深さ300メートルの大峡谷。
谷底から吹き上げる氷点下の突風が、幅80メートルの虚空を切り裂いていた。
その奈落の縁から、銀色に輝く立体ワーレントラスが、まるで空へと伸びる橋脚なき鋼の巨腕のように、ぐんぐんと虚空へと突き出していた。
先端のせり出し長――すでに35メートル。
足元には何もない。下を見下ろせば、暗黒の底に林立する無数の針のような岩柱が見えるだけだ。
一歩踏み外せば、命綱が切れた瞬間に時速200キロで谷底へ叩きつけられる極限の死線。
「おい、新入り! 下を見るな! 足元の水平器の気泡だけを見ろ!」
トラスの最先端、わずか幅60センチの足場板の上で、大声を張り上げている男がいた。
二本線ヘルメットのエドワードである。
両肩のフルハーネス安全帯のフックを、主柱パイプにガチリと掛け替えながら、風車のように身軽なステップで鉄骨の上を舞っていた。
「棟梁! 風圧が……! 下からの吹き上げ気流で、パイプが煽られて手元が狂います!」
若手の鳶職人が、震える手でクランプを握りしめて叫んだ。
谷底からの突風が、秒速20メートルを超えて足場全体を激しく揺さぶる。
片持ち梁は先端にいくほど揺れが増幅され、上下に数10センチも大きくしなり始めていた。
「慌てるな! 風を受けるから揺れるんだ! 斜材の三角形の隙間に風を逃がすんだよ!」
エドワードは若手の肩をガシリと掴み、ヘルメット越しにニッと笑いかけた。
「アレクの引いた図面を見ただろ! この60度のトラス構造はな、どんな突風が来ても風圧を全部根元の200トンアンカーへ逃がすように計算されてる! オレたちが締め付けるボルト1本1本が、この橋を世界一頑丈な鋼の骨に変えるんだ! オレを信じろ、そしてアレクの図面を信じろ!」
「と、棟梁……! はいっ! ボルト締めます!」
若手の瞳に覚悟の光が灯った。
ガガガガッ! キュイイイン!
電動インパクトレンチが唸り、高力ボルトが所定トルクで一気に締め上げられていく。
エドワード自身も、チタンラチェットを手に最前線へと身を乗り出した。
手渡された長さ6メートルのミスリル単管パイプを、左腕1本で軽々と水平に保持。
右手のラチェットを電光石火のスピードで回転させ、自在クランプのナットを噛み合わせる。
ガキン! ガキン! ガキィン!
所定の締結トルク――350ニュートンメートルに達した瞬間、チタンラチェットが心地よい金属音を鳴り響かせた。
「本締め完了! 次、上弦材と対角ブレスを回せ! 水平誤差ゼロコンマ5ミリをキープしろ!」
エドワードの指示は、的確そのものであった。
かつて勇者として戦っていた頃の、自分の力だけを誇示する傲慢さは微塵もない。
仲間の命綱の位置を確認し、風向きを読み、全体のたわみ量を身体感覚で把握しながら、一歩ずつ、確実に虚空を前進していく。
その神業のような施工スピードを、後方の岸壁から見つめていたシエルが、驚嘆の声を上げた。
「主任……! せり出し長、50メートルを突破しました! たわみ量は設計許容値の半分以下、わずか60ミリです! エドワード棟梁の部隊、予定工程を2時間も前倒ししています!」
「ああ。素晴らしいバランス感覚だ」
アレク・ユグレットは測距儀から目を離さず、静かに頷いた。
「エドワードは、トラスにかかる引張力と圧縮力の流れを、肉体で完全に理解している。天性の足場鳶総棟梁だ」
「ピキュッ!」
アレクの足元で、ポチが誇らしげに体を弾ませた。
ポチは後方のアンカーブロックの周囲を巡回し、カウンターウェイトのワイヤーにかかる張力変動を体内の弾性センサーでリアルタイムに監視していた。
「せり出し長65メートル……70メートル……対岸まであと10メートル!」
エドワードの叫びが、風に乗って響いた。
だが、その瞬間――。
ゴオオオオオッ!!
谷底の裂け目から、原初の魔力を含んだ巨大な突風の渦が、竜巻のように巻き上がった!
先端の足場が、グワンと激しく横に数メートルも煽られる!
「うわあっ!? 足場が横に倒れるぞ!」
「横荷重に耐え切れねえ! クランプが軋んでる!」
悲鳴が上がる中、アレクの鋭い指示が飛んだ。
「根元油圧ジャッキ、右舷側を15ミリ押し込み! 風圧モーメントを幾何学的に相殺しろ!」
バルガン親方が即座に油圧レバーを叩き、根元のアンカーが数ミリ傾斜して風圧を受け流す。
そして――最先端のエドワードが動いた。
「横揺れ防止の親綱を張る! オレが先端のアンカーを対岸へ叩き込む!」
エドワードは腰からワイヤー付きのアンカーガンを抜き放つや、トラスの先端から虚空へと身を投げ出した!
「エドワード様!?」
リリアナが息を呑む。
安全帯の命綱がピンと張り詰める限界ギリギリ、空中に投げ出されたエドワードの身体が、対岸の玄武岩の岩壁の直前まで迫る。
その空中で――エドワードはアンカーガンの引き金を引いた!
ドガァァァン!!
対岸の受け台の岩盤深くに、極太のミスリルアンカーが深々と突き刺さった。
「ワイヤー固定! ウインチで巻き締めろォォォッ!!」
エドワードの怒号とともに、後方のウインチがワイヤーをピンと張り詰めた。
暴風に煽られていた先端トラスが、両岸を繋ぐワイヤーの張力によって、グググと引き戻され、対岸の受け台の真上へとピタリと誘導された!
ズズゥゥゥン……!
ガチン! ガチリ!
エドワードたちの組んだ82メートルの立体トラスの先端が、対岸のコンクリート受け台へと寸分の狂いもなく着底した。
左右のガイドピンが噛み合い、着底固定ボルトがガッチリと締め上げられた瞬間――。
ピタッ……。
あれほど激しく揺れていた80メートルの橋が、まるで最初からそこにあった巨大な鉄橋のように、びくともしない完全な剛体となって静止した。
「「着底……! 両岸完全結合、完了しましたーーーっ!!」」
シエルの歓喜の絶叫が峡谷中に木霊した。
「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!!!」」」
10万人の作業員たちから、谷を揺るがす大歓声が沸き起こった!
深さ300メートルの奈落を飛び越え、幅80メートルの銀色のミスリルトラス橋が、堂々と架け渡されたのだ。
所要時間、わずか6時間。
10日の迂回を余儀なくされるはずだった大峡谷が、半日で完全に克服された瞬間であった。
エドワードは対岸の岩の上に降り立ち、額の汗を拭いながら、振り返ってチタンラチェットを高く掲げた。
「へっ! 見たかよ、10万人の仲間たち! 空に道を作ったぜ! トロッコを通していいぞーっ!」
ガタゴト、ガタゴト……!
橋の上に敷設されたレールを通り、インクラインから降ろされた50トンの大型重機台車が、何一つ揺れることなく、誇らしげに橋を渡り、対岸へと進出していった。
その後ろを、10万人の黄色いヘルメットの隊列が、歓声を上げながら渡っていく。
「見事だ、エドワード総棟梁」
橋を渡ってきたアレクが、エドワードの肩を力強く叩いた。
「誤差ゼロコンマ3ミリ。世界基準の架設工事だ」
「へへっ……! アレクに褒められると、悪くねえ気分だな!」
エドワードは照れ臭そうに鼻を擦り、嬉しそうに白い歯を見せた。
大峡谷を突破した東西合同原状回復隊。
だが――地下75階の巨大空洞には、始祖コアからの排熱蒸気が秒速40メートルの暴風雨となって吹き荒れる、さらなる極限の風洞地獄が待ち受けていた。




