第095話:地下70階:崩壊した古代連絡橋の架設
地下60階の1000年ヘドロを250メガパスカルの高圧ジェットで貫通させた東西合同原状回復隊は、インクライン台車に満載した数1000トンの資材とともに、地下70階『深淵の大地裂回廊』へと雪崩れ込んでいた。
だが、回廊の中央に足を踏み入れた瞬間、前衛の作業員たちから息を呑む悲鳴が上がった。
「う、うわああっ……!? 道が……道がねえぞ!」
「奈落の底だ……! 底が見えねえ!」
先頭集団が雪崩を打つように足を止め、後続の十万部隊がざわめきと動揺に包まれた。
そこに口を開けていたのは、幅80メートル、深さ300メートルを超える、地底の巨大な大峡谷であった。
かつて対岸へと渡るために古代文明が築いていたはずの豪奢な大理石橋は、過去の激しい地殻変動によって中央から真っ二つにへし折れ、残骸が遥か奈落の底へと崩落していた。
対岸の断崖絶壁までの距離は、遮るもののない80メートルの虚空。
谷底からは、摂氏零度近い冷気が、ヒョオオオオ……と不気味な風切り音を立てて吹き上がっていた。
「現地測量データを報告します!」
シエルがレーザー測距計の三脚を立て、青ざめた表情で手帳を構えた。
「谷幅実測82・4メートル、鉛直落差310メートル! 両岸の岩盤は硬質玄武岩ですが、亀裂破断面が脆小化しています! 迂回可能な側壁ルートの探索を試みましたが、最短の迂回路でも地下65階まで戻って別坑道を掘り抜く必要があり、最低でも10日間の工期ロスが発生します!」
「10日だと……!? 冗談じゃねえ!」
王国の騎士団長が青ざめて叫んだ。
「世界の寿命は残り28日しかないんだぞ! 10日も足止めを食らったら、地下100階に着く前に世界が滅亡する!」
「だが、向こう岸に渡る手段がねえ! 鳥でもなけりゃ80メートルの谷を飛び越えられるわけがねえだろ!」
「重機やトロッコを抱えて飛べる奴なんざ、全大陸探したっていやしねえよ!」
作業員たちの間に、動揺と絶望が津波のように広がっていく。
10万人を乗せた進軍が、完全に立ち往生した。
橋脚を建てるにも、深さ300メートルの谷底に下りるクレーンすらない。
誰もが言葉を失ったその時――。
「橋脚など建てん。こちら側の岸から、空中に向けて橋を突き出す」
静かな、しかし凛とした声が響いた。
黄色いヘルメットの現場総監督アレク・ユグレットである。
アレクは首から下げた真鍮のコンベックスをパチンと巻き戻すと、手元の図面を足場の支柱にバサリと広げた。
「工法名は――『超長スパン・カンチレバー(片持ち梁)自立立体トラス仮設橋架設工法』だ」
「片持ち梁……!? カンチレバーだと!?」
ドワーフのバルガン親方が目を丸くした。
「そうだ。対岸に着底するまでの間、橋脚の支えを一切使わず、こちら側の岸盤にガッチリと固定したアンカー構造を支点として、空中にトラス足場を片持ちでせり出していく。幅80メートルの虚空に、自力で飛び出す鋼の橋を組む」
「ば、馬鹿言っちゃいけねえ、アレク!」
バルガンがもじゃもじゃの白髭を引っ張って叫んだ。
「片持ちで80メートルも鉄骨を突き出したら、根元にかかる曲げモーメント(回転力)は数0万トンに達するぞ! 先端の重みで根元のアンカーが引っこ抜けて、作業員ごと奈落の底へ真っ逆さまだ!」
「そのための構造計算は、すでに完了している」
アレクは図面の数式を指差した。
「根元のカウンターウェイトには、先ほどインクラインで降ろしてきた50トンの大型重機台車4台――計200トンを後方アンカーブロックとして定置緊結する。さらに、側壁の硬質岩盤へ深さ10メートルの高張力ケミカルアンカーを16本打設し、上向きの引き抜き力を岩盤全体で負担させる。理論上の転倒安全率は――Fs=2・45。絶対に倒壊せん」
アレクはさらに、図面のトラス構造の細部を示した。
「使用部材は、軽量高強度ミスリル合金パイプ(外径60ミリ、肉厚3.5ミリ)。一般的な鋼管の三倍の引張強度を持ちながら、重量は3分の一だ。立体ワーレントラス構造を採用し、斜材の角度を正確に60度に維持することで、先端のたわみ量を最大でも150ミリ以内に抑え込む」
「す、すごい……! 片持ちのまま80メートル先の対岸の受け台へ、計算通りにピタリと着底させる設計ですね!」
シエルが目を輝かせた。
アレクは図面を畳み、背後の二本線ヘルメットの男へと振り返った。
「エドワード総棟梁。この工法の成否は、先端でパイプを1本ずつ組む鳶職人の腕にかかっている。地上300メートルの虚空に身を乗り出し、下からの吹き上げ気流に耐え、恐怖に震えることなく、1ミリの狂いもなくトラスを締め上げる……お前の部隊にしかできない仕事だ」
10万人の視線が、一斉にエドワードへと注がれた。
かつて勇者と呼ばれていた頃のエドワードなら、きっとこう叫んでいただろう。
「そんな危険な仕事、オレのやることじゃない! 誰か別の奴にやらせろ!」と。
だが――今のエドワードの腰には、借金返済の汗と、日当1200ゴールドの誇りが刻まれたチタンラチェットが光っていた。
エドワードはヘルメットの顎紐をカチリと締め直すと、口元を不敵に吊り上げた。
「……へっ。言ってくれるじゃねえか、アレク。80メートルの虚空を歩け、だろ?」
エドワードは腰のダブルランヤード安全帯のフックをジャラリと鳴らした。
「足場鳶を誰だと思ってやがる! オレたちはな、地面を歩く人間じゃねえ。空に足場を組んで、お前らに地面を作ってやるのがオレたちの本業だ!」
エドワードは平原の10万人へ向けて、チタンラチェットを天高く突き上げた。
「おい、足場鳶精鋭第一大隊! ビビってる暇はねえぞ! 二丁掛け安全帯のフックを点検しろ! ミスリル高張力単管パイプと自在クランプを担げ! オレたちが空中に橋を架けて、10万人の仲間を向こう岸へ渡してやるんだ!!」
「「「おうッ!!!!」」」
怒号のような鬨の声が、地下70階の大峡谷を揺るがした。
「根元アンカー打設班、作業開始!」
バルガン親方の削岩隊が火花を散らし、岩盤へ極太のケミカルアンカーを打ち込んでいく。
そして、200トンの重機台車がワイヤーでガッチリとカウンターウェイトとして緊結された。
足場の下には、万が一の資材落下と作業員の墜落を防ぐため、特注のナイロン高強度落下防止ネット(水平養生ネット)が、トラスの前進に合わせて蛇腹状に展張されていく。
そこへ、割烹着を着たルシアが、温かい麦茶のヤカンと塩飴の袋を抱えて駆け寄ってきた。
「エドワード棟梁、鳶職人の皆様! 高所作業は強風で体温と水分が急速に奪われます! 塩分と水分をしっかり補給して、集中力を切らさないでくださいね!」
「おうよ、ルシアちゃん! 塩飴一個で、オレの集中力は十倍だぜ!」
エドワードは飴を口に放り込み、チタンラチェットを右手に握り直した。
「親綱展張、第一トラスユニット――押し出し開始!」
エドワードの鋭いホイッスルとともに、虚空へ向けて、銀色に輝く立体トラスが、まるで生き物のようにせり出し始めた。
奈落の底から吹き荒れる極寒の突風。
足元は300メートルの虚空。
元勇者エドワード率いる足場鳶たちの、命を懸けた空中架設の神業が、今まさに火蓋を切ったのであった。
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