第094話:配管内に残された師匠ガントの足跡
250メガパスカルの超高圧ウォータージェットによって1000年のヘドロが完全に剥離・排出され、直径20メートル、長さ300メートルの巨大主配管は、新品のトンネルのように銀色の光を放っていた。
歓声に沸き立つ10万人の作業員たちの先頭で、現場総監督アレク・ユグレットは、懐中電灯の光を配管の中間地点――深度150メートルの内壁へとピタリと当てていた。
「……主任、どうされたのですか?」
記録用バインダーを抱えたシエルが、不思議そうに駆け寄ってきた。
エドワードもチタンラチェットを肩に担ぎ、覗き込む。
「なんだよアレク、ヘドロの洗い残しでもあったのか? ピカピカに見えるぜ」
「洗い残しではない」
アレクは白手袋の手を伸ばし、内壁の冷たい鋼板の表面に指先を這わせた。
そこには、長方形の古びた真鍮プレートが、四隅を頑丈なリベットでガッチリと溶接されていた。
表面には、タガネとハンマーで力強く叩き込まれた、荒々しい筆跡の文字が刻まれていた。
『――施工:ガント(おいバカ弟子、ここまで来たらヘドロくらい自力で抜け。手抜き工事したらケツ引っぱたくぞ)――』
「……! が、ガントのジジイの刻印だ!」
エドワードが目を丸くして叫んだ。
「あのジジイ、本当に10年前にここを通ったのかよ! こんなヘドロまみれの暗闇の配管を、たった一人で……!?」
「ああ。10年前、王都の迷宮で大地震が起きた直後のことだ」
アレクは白手袋の指先で、真鍮プレートの荒々しい刻印をそっとなぞった。
「あの日、師匠は地底深部の異常振動にいち早く気づき、道具箱一つを抱えて単身で潜っていった。高圧洗浄機など存在しない時代に、タガネ1本で3日三晩ぶっ続けでヘドロを削り、自分の体が通るだけの隙間をこじ開けて進んだのだ。プレートの脇を見ろ」
アレクが懐中電灯の光を少し横にずらすと、そこには耐熱油紙で三重に包まれ、鋼鉄のボルトで壁面に留められた小さな革手帳が挟まれていた。
表面には、師匠の無骨な筆跡で『点検記録:ガント』と記されていた。
アレクが慎重に油紙を解き、手帳を開く。
煤と油で汚れた頁には、配管の肉厚測定値とともに、殴り書きのメモが残されていた。
『この先にある世界の心臓は、俺一人の腕じゃ到底直せねえ。いつか俺の技術を全部叩き込んだバカ弟子が、仲間を連れて追いついてくるはずだ。その時まで、俺が最深核でバルブを押さえて持ちこたえてやる。おいアレク、手抜き工事したらケツ引っぱたくぞ』
「師匠……」
アレクは手帳を胸のポケットに収め、静かに息を吐いた。
第1シーズン第28話、王都の迷宮で遭遇した古代巨人の動力炉のワッシャーにも、まったく同じ刻印があった。
『施工:ガント(手抜きすんなバカ弟子)』。
幼い頃からアレクに叩き込まれてきた、妥協を許さない安全管理と、定時退社の鉄の掟。
師匠はいつも、アレクの遥か先を歩き、絶望的な現場の最前線で道を示し続けてくれていたのだ。
「手抜きなど微塵もしていません」
アレクは懐から指線用の白チョークを取り出すと、ガントのプレートの真下に、寸分の狂いもない美しい楷書でサラサラと書き足した。
『――検査完了:アレク・ユグレット。内壁欠陥ゼロ、残留スラッジゼロ。合格――』
「ピキュッ!」
ポチがアレクの肩の上で、まるで合格印を押すように誇らしげに体を弾ませた。
「……へっ、やるじゃねえかアレク」
エドワードがニッと笑い、チタンラチェットを肩に担ぎ直した。
「ジジイが地下100階で待ってんだろ? 10年前の宿題に満点をつけて、早く追いついてやろうぜ!」
その師弟の絆を目の当たりにしたシエルは、胸を打たれて眼鏡の奥の瞳を潤ませていた。
「……素晴らしいです。10年の時を超えて、師匠から弟子へと受け継がれた原状回復の魂ですね……!」
「ええ、本当に素敵です……!」
ルシアも両手を胸の前で握りしめ、うっとりとアレクを見つめている。
「アレク主任の技術の根底には、こんなにも温かい師弟の絆があったんですね……!」
「おいおい、感動の場面に水差すようだがよ」
エドワードがヘルメットの鍔を押し上げ、配管の出口の先を指差した。
「ジジイのプレートの先……地下70階の出口から、猛烈な冷気と風の音が聞こえてくるぜ。何があるんだ?」
エドワードの言葉に、一同の表情が引き締まった。
全長300メートルの主配管を抜け、地下70階のフロアへと足を踏み入れた瞬間――。
彼らの眼前に広がっていたのは、言葉を失うような、あまりにも巨大な『断絶』であった。
「……な、なんだこれは……!?」
先頭を歩いていた作業員たちが息を呑み、その場に立ちすくんだ。
そこは、地下70階の大峡谷。
深さおよそ300メートル。底には底なしの暗黒と、鋭利な鍾乳石の針が林立する死の裂け目。
そして――対岸へと渡るための唯一の連絡路であったはずの、幅80メートルの古代大理石橋が、中央から完全に真っ二つにへし折れ、奈落の底へと崩落していた。
向こう側の岸までは、遮るもののない80メートルの虚空。
吹き荒れる上昇気流が、ヒョオオオオ……と不気味な風切り音を立てていた。
「現地被害状況を報告します!」
シエルがレーザー測距計を構え、青ざめた声で告げた。
「谷幅80メートル、落差300メートル! 橋脚の基礎岩盤が過去の地殻変動により完全破断しています! トロッコのレールはおろか、作業員が歩いて渡ることすら不可能です! 迂回路の探索には最低でも10日を要します!」
「10日だと……!? そんな時間ねえぞ!」
エドワードが叫んだ。
「工期は残り28日しかねえんだ! 10日も道を探してたら、世界の心臓が止まっちまう!」
10万人の作業員たちが、幅80メートルの底なしのクレバスを見下ろして言葉を失った。
どんなに重機があろうと、どんなにレールを敷こうと、足元に地面がなければ一歩も進めない。
誰もが絶望に息を呑んだ、その時だった。
「迂回などせん。橋がないなら、今ここで架ければいい」
アレク・ユグレットの声が、虚空の風を切り裂いて響いた。
アレクは作業服のポケットから図面ケースを抜き取り、エドワードの胸元へトンと押し当てた。
「エドワード総棟梁。お前の出番だ」
「えっ……? オ、オレ……?」
エドワードが目を丸くした。
「工法名は――『超長スパン・カンチレバー(片持ち梁)自立トラス足場橋架設工法』だ。谷のこちら側から、空中に向けてトラス足場を1本ずつ継ぎ足し、空中に橋を架け渡す。地上300メートルの虚空を歩き、仲間10万人のための道を切り拓く……お前にしかできない仕事だ」
エドワードは図面を見つめ、そして腰のチタンラチェットレンチを握りしめた。
かつて聖剣を振り回し、世界を救うと豪語していた元勇者。
だが今、彼の手にあるのは、仲間を助け、仲間を渡らせるための職人の道具であった。
「……へっ。言ってくれるじゃねえか、アレク」
エドワードの口元が、かつてないほど獰猛に、そして頼もしく吊り上がった。
「80メートルの虚空だろ? 足場鳶にとっちゃ、ただのデカい吹き抜けだ! オレが空中に道を作ってやるよ!!」
絶望の断崖絶壁を前に、足場鳶総棟梁エドワードの、魂の空中架設大作戦が幕を開けようとしていた。
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