第090話:地下50階突破:暗黒回廊の先行照明架設
地上坑口から突入した10万人の東西合同原状回復隊は、バベルの断層迷宮の既知エリアを一気に駆け抜け、数時間後、かつて前人未踏とされていた『地下50階・大断層ゲート』へと到達していた。
そこから先は、1000年前の神話の時代に建造されて以来、完全に打ち捨てられていた未知の領域――【始祖ダンジョン前哨回廊】である。
ゲートを潜った瞬間、作業員たちの足がピタリと止まり、先頭集団からざわめきと動揺が広がった。
「う、うわあ……真っ暗だ。一寸先も見えねえぞ」
「空気が……重い! 呼吸が苦しくなってきた!」
作業員たちがヘルメットに装着した魔導ライトの明かりが、まるで重油のような濃密な暗黒に吸い込まれて10メートル先すら届かない。
1000年、風の一吹きすら通らなかった完全閉塞空間。
冷え切った湿気とともに、空中の酸素濃度計の針は危険水準の16パーセントへと急速に降下し、硫黄と酸化した魔力オゾンの混ざり合ったツンとする刺激臭が鼻腔を突き刺していた。
「酸素欠乏症および有害ガス滞留、さらに照度不足による視界不良・転倒事故の発生確率99パーセントだ」
先頭に立つ現場総監督アレク・ユグレットは、胸元の酸素・硫化水素複合検知器を一瞥し、即座に右手を挙げて立ち止まった。
「全工区、歩行停止。後続の十万部隊をこの酸欠暗黒回廊に突入させれば、5分以内に集団酸欠昏倒、暗闇での将棋倒しによる大規模圧死事故を引き起こす。労働安全衛生失格だ」
「ひぃっ、集団昏倒に圧死事故!?」
後ろに控えていた重装騎士たちやオークの戦士たちが顔色を変えて後ずさりする。
どんなに個々の戦闘力が高かろうと、呼吸する空気がなく足元が見えなければ、戦士などただの肉の塊に過ぎない。
「慌てるな。長大トンネル工事における先行インフラ架設の基本手順を実行する」
アレクは振り返り、二本線ヘルメットの男に視線を送った。
「エドワード総棟梁。地下50階から60階に至る全長5キロメートルの暗黒回廊全域に対し――『先行懸垂型単管照明ラインおよび特大フレキシブル換気ダクト』の急速架設を命ずる」
「へっ! 待ってましただ、アレク!」
エドワードが腰のチタンラチェットを抜き放ち、ニヤリと白い歯を光らせた。
「暗闇と酸欠なんざ、オレたち足場鳶に言わせりゃ『ただの段取り不足』だ! 野郎ども、足場鳶第一大隊、出番だぞ! 高所作業用ヘッドライト全開! 天井のアンカーポイントに単管パイプを突っ走らせろ!」
「「「おうッ!!!!」」」
エドワードを先頭に、選抜された熟練の鳶職人500名が暗黒の回廊へ躍り出た。
彼らは暗闇を恐れるどころか、猫のように身軽なステップで岩壁の凹凸を駆け上がり、天井の岩盤めがけて空圧アンカーガンを連射する。
ズガン! ズガン! ガガガガッ!
硬質岩盤に打ち込まれた耐荷重5トンの吊りボルト。
そこへ、軽量ミスリル単管パイプが電光石火の早業でクランプ締結されていく。
ガキン! ガキン! ガキィン!
エドワードのチタンラチェットが唸りを上げるたびに、天井に銀色のレールが1本、また1本と真っ直ぐに伸びていく。
かつて聖剣を力任せに振り回していた腕力は、今や1ミリの狂いもなくクランプを所定トルクで締め上げる、神がかった職人技へと昇華されていた。
「単管ランウェイ敷設完了! 照明班、LED魔導防爆投光器を吊り込め!」
エドワードの合図とともに、鳶職人たちが単管パイプに沿って特殊な配線ケーブルを滑らせ、10メートル間隔で高輝度の投光器を吊り下げていく。
カチリ、カチリとスイッチが入るたびに――。
パアァァァァァァッ……!
1000年の暗黒が、まるで昼間の太陽の下のように白熱の光で照らし出された。
壁面の古代レリーフ、足元の石畳、天井の巨大アーチが、眩しいまでの鮮やかさで浮かび上がる。
「明るい……! 真昼の王都の広場より明るいぞ!」
作業員たちから歓声が上がる。だが、アレクの目はまだ鋭い。
「視界は確保されたが、空気の置換がまだだ。換気班、ダクト送風機を起動しろ!」
「お任せください、主任!」
シエルが巨大な操作盤のレバーを力いっぱいに押し下げた。
坑口に据え付けられたドワーフ特製の超巨大送風ファン――毎分5万立方メートルの外気を圧送するターボブロワーが一斉に回転を始めた。
ゴオオオオオオオッ!!
エドワードたちが天井パイプに吊り下げた、直径1・5メートルの黄色い蛇腹ダクト(フレキシブルダクト)が、まるで生き物のようにパンパンに膨らみながら暗黒回廊の奥深くへと疾走していく。
ダクトの先端のスリットから、地上の清浄で冷涼な大気が、猛烈なジェット気流となって吹き荒れた。
「有毒ガスを押し流せ! ポチ、排気側フィルターの魔力吸着バッファを頼む!」
「ピキュウゥゥッ!」
ポチが回廊の側壁に陣取り、吹き飛ばされてきた硫黄とオゾンの微粒子を体内の吸着膜で一滴残らずキャッチして無害な塩化結晶へと変えていく。
スーッ……と空気が澄み渡っていった。
アレクの検知器のアラームが止まる。
「酸素濃度20.9パーセント、硫化水素ゼロ、可燃性ガスゼロ。照度300ルクス以上を確保。安全環境基準を完全クリアした」
だが、安堵しかけた作業員たちを、アレクの厳しい声が引き締めた。
「喜ぶのは早い。全長5キロメートルの回廊の床面を見ろ」
アレクが懐中電灯で足元を照らすと、1000年の歳月で風化した古代石畳が、あちこちで隆起し、陥没していた。深いクレバス(地割れ)が口を開け、鋭利な瓦礫が散乱している。
「段差20ミリ以上の不陸が連続している。重機トロッコはおろか、台車を押して歩く作業員の転倒や足首捻挫が頻発する状態だ」
「よし、路面補修班、出番だぜ!」
バルガン親方がドワーフの仲間たちを引き連れて前に出た。
「おい野郎ども、軽量ランマー(転圧機)と速硬性魔導アスファルトモルタルを持ってこい! 歩行帯の幅3メートルを真っ平らに均してやる!」
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!
機械の小気味よい打撃音とともに、凹凸が削り落とされ、黒いモルタルが流し込まれて平滑に転圧されていく。
わずか30分で、回廊の中央に、段差ゼロの美しい『中央歩行・運搬専用グリーンロード』が1本、地平線の彼方まで敷き詰められた。
「歩行帯の左右に黄色い安全トラロープを展張! 『歩行帯厳守・足元注意』の安全標識を50メートルごとに設置完了しました!」
シエルがメモ帳をパチンと閉じ、笑顔でアレクに敬礼した。
アレクが懐中時計を確認する。
「所要時間、わずか1時間15分。エドワード、バルガン、シエル、予定工程より大幅な前倒しだ」
「へへっ、オレたちを誰だと思ってやがる!」
エドワードはヘルメットの鍔を押し上げ、誇らしげにチタンラチェットを腰に収めた。
「10万人の仲間が後ろで待ってんだ! 足元が暗くて息が苦しく、転んで怪我するような現場、オレたち鳶とドワーフが許すわけねえだろ!」
その頼もしい姿に、後方に控えていた10万人の作業員たちから、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
「すげえぞ、エドワード棟梁! バルガン親方!」
「これなら後ろを歩く俺たちも、つまずかずに全速力で資材を運べるぜ!」
「元勇者様、いや、本物の現場の棟梁様だ!」
「全工区に通達!」
アレクの明瞭な号令が、真昼のように明るく、澄んだ空気の回廊に響き渡った。
「先行インフラの開通を確認した。これより地下55階へ向けて、全軍進撃! 歩行帯を守り、指さし呼称で前進しろ!」
「「「応ッ!!!!」」」
10万人の黄色いヘルメットの隊列が、眩い光と新鮮な空気のトンネルを、力強い足音を響かせながら突き進んでいく。
しかし――地下55階の急勾配エリアには、重量数1000トンの大型工作機械とレール部材を運ぶための、さらなる土木の難所が待ち構えていた。
--------------------------------------------------------------------------------




