第089話:出陣の朝:10万人のヘルメット点呼
午前6時00分。
国境メガダンジョン『バベルの断層迷宮』の巨大坑口前に広がる大平原は、早朝の濃密な朝靄を切り裂くように、無数の篝火と魔導投光器の光条で埋め尽くされていた。
ざわざわと蠢く黒い人影の波。
王国の正規重装歩兵、名門冒険者クランの精鋭、エルフの弓術士、ドワーフの削岩工たち。
そして、それと対峙するように並ぶ魔王軍の黒甲冑騎士、筋骨隆々のオーク戦士、ゴブリン工兵、サキュバス輜重隊――総勢10万人。
かつて1000年にわたって血で血を洗う殺し合いを演じ、互いの肉親の仇として刃を向け合ってきた宿敵同士が、わずか数メートルの間隔を空けて整列していた。
空気は張り詰め、今にも誰かが抜剣すれば暴動が起きかねない一触即発の殺気が渦巻いていた。
「おい、人間……。俺の足を踏むんじゃねえ。豚の餌にするぞ」
「なんだとオークめ! 貴様ら魔族の異臭こそ鼻が曲がりそうだ!」
前列で剣の柄に手をかけた騎士と、巨大な戦斧を握りしめたオークが睨み合う。
その火花が爆発しようとした――まさにその瞬間である。
コォォォォン……!
澄み切った、しかし鼓膜を強烈に震わせる金属打撃音が、静寂を切り裂いて大平原に響き渡った。
「――そこまでだ。現場敷地内における抜剣、威嚇、および私闘は、全大陸統一安全衛生規程第4条第2項により『即時退場処分および日当全額没収』の対象となる」
平原の中央、地上15メートルの仮設指揮足場の上。
拡声メガホンを片手に、ネイビーの高機能作業ツナギを着た男がすっくと立っていた。
アレク・ユグレットである。
頭には、ピカピカに磨き上げられた黄色い安全ヘルメット。額には「安全第一」、側頭部には「定時退社」の緑色のステッカーが誇らしげに貼られている。
そのヘルメットの天辺では、お揃いのミニチュア黄色ヘルメットを被ったスライムのポチが、腕組みをするように体をプルンと震わせて仁王立ちしていた。
「あ、アレク主任……!」
抜剣しかけていた騎士が、思わず息を呑んで手を引っ込めた。
「全員、手元の木箱を見ろ」
アレクが平然と指差し確認のポーズをとる。
「本工事の着工に先立ち、ドワーフ連合王国の全鋳造工場と王都鉄工所が不眠不休で打ち出し、魔王軍補給部隊が配備した個人用保護具(PPE)の一式だ。直ちに開封し、着用しろ」
10万人の戦士たちが、足元に置かれた規格木箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは――寸分の狂いもなく均一に成形された、鮮やかな黄色の『超高張力ミスリル強化安全ヘルメット』。
そして、両肩と太ももをしっかりとホールドする二丁掛けフルハーネス型安全帯、防塵ゴーグル、耐摩耗皮手袋、爪先に鋼板の入った編み上げ安全靴であった。
「ヘルメットの顎紐は、指1本が入る隙間を残して確実に締めろ。緩みがあれば衝撃吸収ライナーが機能しない。安全帯のランヤードのショックアブソーバーに亀裂がないか、相互点検を実施しろ」
アレクの冷徹な、しかし有無を言わせぬ指示が響く。
「な、なんだこれは……!? 騎士の誇りである白銀の兜を脱いで、こんな黄色い鉢金を被れと言うのか!?」
「魔王軍の誇り高き角が、この帽子じゃ引っかかるではないか!」
人間と魔族の双方から不満の声が上がった。
だが、その不満を正面から一喝したのは――指揮足場の中段に仁王立ちした、金髪碧眼の元勇者であった。
「ガタガタ抜かすんじゃねえ、素人どもがッ!!」
怒声を轟かせたのは、エドワードであった。
かつての華美な白銀の鎧は脱ぎ捨てられ、汚れ一つない職人ツナギに、黒革の工具差しを腰に巻きつけている。
その黄色いヘルメットの正面には、熟練職人の証である黒の『二本線』がクッキリと引かれ、腰には百戦錬磨のチタンラチェットレンチがギラリと光っていた。
「ヘルメットを被らねえ奴は現場に入る資格はねえ! ボルト一個、ナット一個が頭上に落ちてくりゃあ、勇者の分厚い兜だろうが魔族の硬い角だろうが、頭蓋骨ごと粉々に砕け散るんだよ! オレはかつて、ヘルメットも被らずに迷宮に突っ込んで、落石で気絶して借金地獄に落ちた! てめえらも借金王になりてえのか、ああん!?」
「ひ、ヒエッ……! 元勇者様が現場監督の顔で怒鳴りつけてくる……!」
王国の騎士たちが気圧され、慌てて黄色いヘルメットを頭に押し込んだ。
「角が引っかかる魔族はこっちに来てください!」
足場の下から、割烹着姿のルシアが愛らしい羊角を揺らしながら小走りでやってきた。
「魔王軍営繕課特製の『角逃がしスリット加工済みヘルメット』を用意してあります! サイズごとにM・L・LLと揃えてありますから、無理に押し込まずに交換してくださいね!」
「お、おお……! ルシアお嬢様、ありがたき幸せ……!」
巨漢のオークたちが頬を緩めて黄色いヘルメットを受け取っていく。
「皆様、安全書類の記入も忘れずに!」
反対側からは、タイトスーツにピンク色の腕章を巻いたシエルが、巨大なバインダーを抱えて駆け回っていた。
「各工区の班長は、こちらの『危険予知活動(KY)記録簿』に本日の作業内容と危険ポイント、対策を記入してサインしてください! KY活動未実施の班は、坑口ゲートの通過を一切認めません!」
二人のヒロインと元勇者の獅子奮迅の仕切りによって、不穏な空気は一瞬にして消え失せ、平原は整然とした『巨大工事現場の始業風景』へと様変わりしていった。
見渡す限りの黄色いヘルメットの海。
10万人の男と女が、人種も国境も超えて、同じヘルメットを被って直立している。
「がっはっは! 見事なもんだな、アレク!」
足場の天辺で巨大なスパナを担ぐバルガン親方が、アレクの肩をポンと叩いた。
「かつてガントの爺さんが一人で潜った地底の闇に、今じゃ10万人の黄色いヘルメットが並んでやがる。爺さんが最深核で踏ん張ってる間に、俺たちの手で世界の心臓のバルブまで道を繋げてやろうぜ!」
アレクは静かに頷き、メガホンを構え直した。
「全大陸合同・始祖ダンジョン突貫大改修隊、総員注目」
シーンと静まり返る10万人の平原。
「工期は残り30日。目標は地下100階、世界の心臓部『始祖コア』の完全オーバーホールだ。我々の敵はモンスターではない。1000年放置された老朽化と、30日というタイムリミットだ。1秒の無駄も許されないが、焦りによる事故はそれ以上に許されない」
アレクは右手を高く掲げ、人差し指をピシッと坑口へ向けた。
「全員、指さし呼称を実施する! 右手を掲げろ!」
ジャラリッ!
10万人の右腕が一斉に天へと突き上げられた。
「服装・保護具――ヨシ!」
「「「「「ヨシ!!!!!」」」」」
地鳴りのような咆哮が大気を震わせる。
「二丁掛け安全帯――ヨシ!」
「「「「「ヨシ!!!!!」」」」」
十万個のフックが腰骨で心地よい金属音を立てた。
「健康状態・アルコール検知――ヨシ!」
「「「「「ヨシ!!!!!」」」」」
「始祖ダンジョン突貫大改修工事――ヨシ!!」
「「「「「ヨシ!!!!!!!!!!」」」」」
ドォォォォンッ!!
10万人の魂の唱和が、朝靄を完全に吹き飛ばし、黄金色の朝日が黄色いヘルメットの海を眩しく照らし出した。
「全工区、突入開始! 世界の心臓を、元通りに直して帰るぞ!!」
アレクの力強い合図とともに、10万人の大津波が、バベルの断層迷宮の巨大坑口へと一斉に雪崩れ込んでいった。
1000年の歴史を覆す、人類史上最大の現場が、今まさに幕を開けたのだ。
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