第009話:ポチの超速モップがけ無双
資材庫の反対側の壁から、足音が聞こえてきた。
ひたひたと、数え切れない小さな足が、石の床を叩く音。ぎゃあ、ぎゃあ、と錆びた金属を擦るような叫びが、洞窟の奥から這い寄ってくる。
「主任、どうしますか」
シエルが、杖を握りしめた。ポチを肩に載せたまま、声が少し震えている。
「戦いますか。それとも」
「逃げる」
「逃げる、ですか」
「俺は戦闘職じゃない。現場の人間だ」
アレクは、ライトを回して通路を照らした。
資材庫の入口、さっき通ってきた非常通路。それは、新人たちが逃げていった地上への道と繋がっている。しかし、その道の途中に、ひとつだけ問題があった。
「監査官殿。さっき、地上から戻ってくるとき、通路の途中で何か気づかなかったか」
「通路の途中……ええと」
シエルは、記憶を探った。
「そういえば、少し、足元が」
「滑ったか」
「はい。それも、妙に。まるで、油が」
「そうだ」
アレクは、頷いた。
「ゴブリンは、洞窟の奥の広間で、焚き火を焚いてた。炊事の油と、煤が、通路の床に長いこと染みついてる。50メートルほどの区間だ。普通に走れば、転ぶ。あれが、一番の足止めになってた」
「では、地上へ戻るのは」
「俺たちが、走って通れる状態じゃない。かといって、ゴブリンは裸足だ。足の裏の皮が分厚いから、滑らない」
「……それでは、不利です」
「ああ。だから」
アレクは、肩の上のスライムに、視線を移した。
「ポチ」
「ぷる?」
「仕事だ」
ポチの黒い点が、きらりと光った。
ぎゃあぎゃあと、叫び声が近づいてくる。
資材庫の反対側の壁、崩れかけた土の隙間から、緑色の小さな影が次々に這い出してきた。黄色い目、尖った牙、錆びた短剣。先頭の一匹が、ライトの光に目を細めて、威嚇するように吠えた。
「ぎゃあああ!」
アレクは、背負い袋を担ぎ直した。
「シエル、走るぞ」
「しゅ、主任、今、名前で」
「いいから走れ!」
二人は、資材庫の入口に飛び込んだ。
後ろから、ゴブリンの群れが雪崩のように追ってくる。ぎゃあぎゃあと叫びが洞窟に反響し、足音が壁を震わせた。
通路に出る。
狭い石の廊下が、一直線に延びていた。壁は濡れて黒く光り、床は、ところどころ黒い脂でてらてらと光っている。ライトの灯りが、その表面に長い反射をつくった。
「ここです! ここから先が、油の区間です!」
「ポチ、頼む!」
アレクの合図とともに、ポチが、シエルの肩から飛び降りた。
ぺたん。
床に着地した瞬間、黄色いゼリーの体が、ぐにゃり、と平たく広がった。
厚みは、わずか数ミリ。広がった直径は、人の背丈ほど。表面は、ぬらぬらと光る薄い膜のように、石の床を覆い尽くしている。頭の上のカップだけが、ちょこんと中心に載っていた。
「え」
シエルの口が、ぽかんと開いた。
次の瞬間、ポチが、床を滑り出した。
シュルルルルルッ!
氷の上を滑るスケートのように、ポチは通路の床を一直線に突き進んだ。通った場所から、黒い油と煤が、一瞬で消えていく。ごしごしと擦る必要もない。薄い体が表面に触れた瞬間、油汚れが、じゅわっと溶けて吸い込まれていく。
ぴかぴかの石が、現れた。
水を撒いたように磨かれた床が、ライトの光を反射して、鏡のように輝いている。
「な、なんという清掃能力……!」
シエルは、走りながら、目を丸くした。
「ポチ、止まるな! 右の壁際も!」
「ぷるっ!」
ポチは、軽やかにカーブを描いて壁際に張りつき、煤けた壁の下の部分を、一気に拭き上げた。ツルッ、ツルッ、と小気味よい音が響く。続いて、天井の低い場所に飛び上がって、垂れ下がった蜘蛛の巣と脂を、ぺろりと平らげた。
しかも、速い。
アレクとシエルが走る速度に、ぴたりと合わせている。
「主任、どうして、こんなに速く」
「分解の速度は、体の表面積に比例する。薄く広げれば、それだけ、速く片づく」
「理屈は、分かりますが!」
「実際に見ると、驚くだろ」
「はい!」
シエルの声が、弾んでいた。
追いかけてくるゴブリンたちが、通路に飛び込んだ。
ぎゃあぎゃあ、と叫びながら、小さな足が石の床を叩いて——
つるっ。
先頭の一匹が、足を滑らせて、すってんと転んだ。
「ぎゃっ!?」
続いて、二匹目が、一匹目に躓いて前のめりになる。三匹目が、二匹目の背中に乗り上げて、ずるりと横に流れる。
通路の途中、さっき、アレクがわざと「ここは残せ」とポチに指示した、わずか10メートルほどの区間があった。
そこの床だけは、ゴブリンたちの炊事の油が、そのまま、たっぷり残っている。
つるるるるっ。
ゴブリンたちが、一列になって、床の上を滑り出した。
「ぎゃあああああ!?」
「ぎゃっ! ぎゃぎゃっ!」
まるで、巨大なボウリングのレーンだった。
先頭の一匹が、仰向けになって滑っていく。その後ろから、二匹、三匹、五匹、十匹と、ごろごろと連なって滑り出す。彼らの叫び声が、長い尾を引いて通路の奥へ遠ざかっていった。
アレクは、走りながら、ちらりと後ろを振り返った。
「……十匹ストライクだな」
「主任、あれは!」
「通路の突き当たりは、第三広間の水たまりだ。深さは、膝くらい。溺れる心配はない」
ざぶーん、と派手な水音が、遠くから響いてきた。
続いて、ばしゃばしゃ、という、情けない水しぶきの音。
ゴブリンたちの怒りの叫びが、水の中でくぐもって、聞こえなくなった。
シエルは、走りながら、堪えきれずに吹き出した。
「ふ、ふふっ、あはははっ!」
「笑ってる場合か」
「す、すみません! でも、あの、ボウリングが……!」
「まだ、七匹くらい残ってる」
彼の言葉通り、通路の後方には、足を滑らせずに踏みとどまった数匹のゴブリンが、まだ追いかけてきていた。
しかし、その足取りは、もうおぼつかない。
ポチが磨き上げたぴかぴかの床は、乾いた石の感触がちょうどよく、ゴブリンたちの裸足にはむしろ好都合に見えた。けれど。
「ぎゃ!」
「ぎゃぎゃっ!」
数匹が、突然ぴたりと足を止めた。
通路の途中、天井から長いロープが、1本ぶら下がっていたのだ。
アレクが、走りながら、すれ違いざまに引いていた。
ぐい。
天井の石の栓が、ごとん、と外れた。
ざざざざざざーっ、と、頭上から、細かな砂が、滝のように降り注いだ。ゴブリンの頭上に、一斉に。
目に砂が入ったらしい。ゴブリンたちは、短剣を放り出して、顔を押さえてじたばたと転げ回った。
「砂時計の逆だ」
「しゅ、主任、いつの間にこんな仕掛けを」
「資材庫に、元々あった。非常用の砂の排出口だ。火事のときに、火を消すために作られたんだろう」
「それを、再利用して……」
「使えるもんは、使う」
アレクは、淡々と答えた。
ポチが、足元をシュルルルッと滑りながら、ぷるぷると誇らしげに震えた。
地上の光が、見えてきた。
通路の先の小さな円。陽の光が白く差し込み、湿った空気が、少しずつ乾いていく。
外の風の匂いがした。木の葉と、土と、日向の匂い。
アレクとシエルは、洞窟の出口に飛び出した。
眩しい。目を細めると、青い空が、ぽっかりと頭上に広がっていた。
ふう、と大きく息を吐いて、二人は、膝に手をついた。
シエルの肩で、ポチが、ぷるぷると揺れていた。頭の小さなカップが、陽の光を受けて、きらりと光った。
「……生きてますね」
「ああ」
「ゴブリンは」
「水たまりの中だ。そのうち出てくるが、もう追ってこない。足の裏が、ぬるぬるだからな」
「それ、また、ポチのおかげですか」
「半分は、そうだ」
アレクは、肩のスライムを軽くつついた。
ポチは、ぷるん、と跳ねた。
「ぷるっ!」
「それと、あの油の区間を残すよう指示したのは、お前が走りながら見ていたからだ。通路の途中の天井の砂の仕掛けに気づいたのも、お前が先だった」
「え、わ、私が?」
「通路の途中で、一度、天井を見上げただろう」
「あ、はい。ロープが、気になって」
「それが決め手だった。ありがとう」
シエルは、言葉に詰まった。
耳の先が、じわじわと赤く染まっていく。
「い、いえ、あの、私は、ただ」
「ただ?」
「……ありがとうございます、主任」
小さな声だった。
アレクは、ふいと視線を外した。
空を見上げて、懐中時計を取り出す。
「11時20分か」
「まだ、午前中です」
「定時まで、あと5時間と40分。ちょうどいい」
「何がですか?」
「巡回の続きだ。ゴブリンの巣穴の定期点検が、まだ終わってない」
シエルが、目を丸くした。
「主任、今、あんなことがあったのに、まだ点検を!?」
「仕事だ」
「そ、そうですね……」
彼女は、ふっと、笑った。
疲れた顔だったが、碧い瞳は、不思議と輝いていた。
「ご一緒させていただきます」
「ああ。ポチも、来い」
「ぷるっ!」
三人は、並んで、洞窟の入口へ戻っていった。




