第008話:現場スライム・ポチとの出会い
非常通路の奥は、思ったよりも広かった。
ヘルメットのライトが、闇を切り裂いて前へ伸びていく。壁は人の手で削り出された滑らかな石で、床には細い溝が切ってある。水を逃がすための排水溝だ。数100年前の設計者が、ここで誰かが働くことを前提に、丁寧に造り込んでいた。
アレクは、歩きながら壁を指先で撫でた。
乾いている。奥へ進むほど空気の湿り気が薄れ、代わりに、古い木と油の匂いが濃くなっていく。鼻の奥がくすぐられるような、懐かしい匂いだった。
「……資材庫か」
通路の突き当たりで、道が急に開けた。
部屋は、教室ほどの広さがあった。天井は低く、柱が4本。壁際には朽ちかけた木箱が積み上がり、錆びたツルハシや、ぼろぼろのロープの束、空になった油の缶が床に転がっている。棚には、黄ばんだ図面の筒がずらりと並んでいた。
アレクは、ライトを左右にゆっくり振って、部屋の状態を確かめる。
床の中央に、崩れた天井の石材が山をつくっていた。長い年月のうちに、少しずつ落ちてきたのだろう。柱の根元には太い梁が折れて横たわり、その下に、粉塵がうっすらと積もっている。
そのとき。
ぷるっ。
微かな音がした。
アレクは、ぴたりと足を止めた。
「…………」
ぷる、ぷる、ぷるる。
小さく、震えるような、水っぽい音。
音のする方向へ、ゆっくりとライトを向ける。梁と石材の隙間。人の拳ほどの暗がり。その奥で、何か黄色いものが、ひくひくと動いていた。
アレクは、慎重にしゃがみ込んだ。
手のひらほどの大きさの、半透明のゼリー状の塊。色は、鮮やかなレモンイエロー。つぶらな黒い点が二つ、ぽつんとこちらを見つめている。
スライムだった。
梁の下に、体の半分がはさまれていた。石材と石材の間に押し込められて、身動きが取れずにいる。それでも、残りの体はぷるぷると震えながら、必死に何かをしていた。
「……何を、食ってる」
アレクは、ライトを近づけた。
スライムの体の表面に、うっすらと積もった粉塵が、ゆっくりと取り込まれていく。黄色い体の内側で、粉が小さく泡立ち、すうっと消えていた。次に、隣の石の表面についたカビの苔が、じわじわと溶けていく。
アレクは、目を細めた。
「……分解してるな」
ただ食べているのではなかった。粉塵を、体の中で何かに変えている。石の表面を、乾いた手で拭うようにきれいにしている。
スライムが、アレクに気づいた。
黒い点が、ぱちぱちと瞬く。小さな体が、ぷるぷると震え、それから、くい、と首を傾げるように傾いた。
「…………」
アレクは、小さく息をついた。
「動くな」
バールを取り出す。
梁の隙間に先端を差し込み、石材の角に当てて、体重を載せた。ギ、ギ、と木の軋む音が響く。慎重に、少しずつ、てこの力をかけていく。梁が、ほんの2センチだけ持ち上がった。
「今だ」
スライムは、びくっと震えた後、ぬるりと体を縮めて隙間から滑り出た。
ぽん、と軽やかに床に転がる。
アレクは、バールをゆっくりと戻した。梁が、ごとん、と落ち着いた。
スライムは、床の上で、ぷるぷると体を震わせていた。
それから、ゆっくりと、アレクの方へ近づいてくる。
床を這う、じゅる、じゅる、という小さな音。
アレクの安全靴の前で、スライムは止まった。
そして、ぴょん、と跳ねた。
靴の先に、ぺたりと貼りついた。
「…………おい」
ぷるぷる。
スライムは、安全靴の爪先についた泥を、体の表面でもぞもぞと拭い始めた。
土と泥が、黄色いゼリーの内側へ吸い込まれていく。靴の爪先が、みるみるうちに艶を取り戻した。続いて、側面。紐の周り。ひとしきり磨き上げると、スライムは満足そうに身を引いて、ぷるん、と一度震えた。
アレクの安全靴が、新品のように光っている。
「……すごいな」
素直な感想が、口をついて出た。
スライムは、ぱちぱちと瞬きをして、ぷるっ、と嬉しそうに跳ねた。
何気なく部屋を見回すと、棚の端に、小さな工具箱が置かれているのが目に入った。
アレクは、立ち上がって近づく。
箱を開けると、中には、ボルトやナットが種類ごとに仕分けられていた。どれも、手入れされた形跡がある。几帳面な誰かが、きちんと整頓して、そのまま置いていったものだ。
「……」
アレクは、箱の蓋の裏側を、ちらりと見た。
何も書かれていなかった。
彼は、少しだけ、がっかりした自分に気づいた。
そのとき、足元で、ぽん、という音がした。
スライムが、箱の中のナットを一つ、体に取り込んで、頭の上に載せていた。
六角形の小さな鉄のナットが、黄色いゼリーの頂点に、ちょこんと乗っている。スライムは、胸を張るように体を伸ばして、アレクを見上げた。
「…………」
「ぷるっ!」
ドヤ顔だった。完全にドヤ顔だった。
顔のないスライムに、これほど鮮明なドヤ顔ができるとは、アレクは知らなかった。
彼は、思わず、口の端を持ち上げた。
「……ヘルメットが欲しいのか」
「ぷる?」
「頭に何か被ってるのが、気に入ったんだろ」
アレクは、棚の中を探った。
計量用の小さな金属カップが、見つかった。内側が黄色く塗られていて、昔の職人が油を量るのに使っていたらしい。ちょうど、スライムの頭のサイズに合う。
彼は、胸ポケットから、油性のペンを取り出した。
キュッ、キュッ。
カップの外側に、不器用な字で、四文字を書く。
『安全第一』
そのカップを、ナットをどけたスライムの頭に、そっと載せてやった。
スライムは、ぴたりと動きを止めた。
1秒。
2秒。
次の瞬間、ぷるるるるるっ、と全身を震わせて、ぴょんぴょんと跳ね回った。床の上を右へ左へ、天井まで届きそうなほど高く。黄色い体がきらきらと光り、頭の上の小さなカップは、不思議とずれなかった。
「……気に入ったか」
「ぷるっ! ぷるぷるっ!」
スライムは、アレクの足元に戻り、ぴたりと貼りついた。
そして、安全靴の上で、ぷるんと嬉しそうに揺れた。
足音が、通路の奥から近づいてきたのは、その直後だった。
コツ、コツ、コツ。
規則正しい、安全靴の音。
「主任! 新人の皆さんは、無事に地上まで送り届けました!」
通路の入口に、ピンクのツナギ姿のシエルが現れた。ほどけた髪は、もう一度まとめ直したらしい。肩で息をしながらも、背筋をぴんと伸ばしている。手には杖を握ったまま、まっすぐに資材庫の中を見渡した。
「時間がかかってすみません。入口で、受付から事情を聞かれて、それで——」
言葉が、途切れた。
彼女の視線が、アレクの足元に、固定された。
黄色いゼリー状の物体が、安全靴の上でぷるぷると震えている。
「……ま、魔物です!」
シエルは、杖を前に突き出した。
「主任、下がってください! スライムです! 今、駆除を——」
「待て」
「しかし!」
「待てと言ってる」
アレクは、静かに片手を上げた。
「こいつは、危なくない」
「ですが、スライムは、迷宮の不衛生な環境を好んで繁殖する魔物で、管理局の規定では——」
「見ろ」
アレクは、足元のスライムを指さした。
シエルは、不審げに視線を落とした。
黄色いスライムは、ぴくりとも動かずに、大人しく座っていた。頭の上には、小さな金属カップが載っている。そこには、手書きの文字が、へたくそに並んでいた。
『安全第一』
「…………」
シエルの杖が、ぴたりと止まった。
「……ヘルメット、ですか?」
「そうだ」
「スライムが、ヘルメットを」
「そうだ」
「しかも、安全第一と」
「書いたのは俺だ」
沈黙。
洞窟の奥で、水滴が、ぽとん、と落ちた。
スライムが、ぷる、と首を傾げるように傾いた。
シエルの顔が、見る間に変わっていった。眉間の皺がほどけ、唇がわずかに開き、瞳がうるうると揺れ始める。杖の先が、ゆっくりと下がっていった。
「……か」
「か?」
「か、かわいい……」
蚊の鳴くような声だった。
アレクは、無言で、スライムを拾い上げた。
手のひらの上で、スライムは、ぷるぷると喜んでいる。
「粉塵を食って、分解してる。環境を悪くしてるんじゃなく、きれいにしてる。管理局の規定は、こいつみたいなのまでは想定してないんだろう」
「そ、そうなのですか……」
「それと、こいつ、靴を磨いた」
「靴を」
「新品みたいだ」
シエルは、目を丸くして、アレクの足元の安全靴を見つめた。
ぴかぴかだった。
「こいつ、連れて帰る」
「え」
「現場に一匹いると、便利だ」
「で、でも、管理局への届け出は」
「俺の責任で出す」
アレクは、スライムを手のひらに載せたまま、シエルに差し出した。
「抱いてみるか」
「い、いいのですか!?」
「噛まない」
シエルは、両手を差し出した。
スライムは、アレクの手のひらから、ぷるん、とシエルの手のひらに移った。ひんやりと、ふにふにとした感触。ぷるぷると震える体温が、手のひらにじんわり伝わる。
「わ、わあ……」
エリート監査官の唇から、ふにゃりとした声が漏れた。
「主任。この子の、名前は」
「ない」
「で、では、つけましょう」
「…………」
アレクは、少し考えた。
足元にぺたりと貼りついて、離れなかった。靴の上で嬉しそうに震えていた。助けた瞬間から、ずっとついてきた。
「ポチ」
「ポチ?」
「犬みたいだからな」
「ぷるっ!」
ポチが、勢いよく跳ねた。
気に入ったらしい。
その時だった。
ぴたり、と、ポチの動きが止まった。
頭の上のカップが、ぷるぷると小刻みに震える。体を平たく伸ばし、通路の入口の方へ、鋭く向き直った。
「どうした」
アレクは、耳を澄ました。
静かだった。
さっきまで、扉の向こうで響いていた、ゴブリンの体当たりの音が、消えている。
「……止んだな」
「え? 諦めたのでしょうか」
「ゴブリンは、そんなに素直じゃない」
アレクの表情が、険しくなった。
彼は、背負い袋から設計図を引っ張り出し、素早く広げた。指先で、資材庫の位置を確かめ、そこから伸びる線を辿る。
「……やっぱりか」
「何が、ですか」
「この資材庫には、入口がもう一つある」
アレクは、図面の一点を指さした。
資材庫の反対側の壁。そこに、別の通路が接続されていた。それは、さっきまでゴブリンがひしめいていた広間の、裏手の洞窟へと繋がっている。
「ゴブリンは、扉をこじ開けるのを諦めて、回り込んできてる」
「ということは」
「もうすぐ、来る」
ポチが、ぷるぷると震えた。
資材庫の反対側の壁の奥から、かすかに、ぎゃあ、ぎゃあ、という、錆びた金属のような叫び声が聞こえ始めた。




