第007話:その亀裂は「非常口」だ
洞窟の突き当たりは、小さな広間になっていた。
天井は低く、壁は黒く湿っている。その広間の奥の壁を背に、三人の若い冒険者が肩を寄せ合っていた。そして、広間の入口をぐるりと取り囲むように、小さな緑色の影が、数え切れないほど蠢いている。
ゴブリン。
身の丈は子どもほど。つり上がった黄色い目、尖った耳、牙のはみ出した口。手には錆びた短剣や、削った骨の棍棒を握っている。数は、ざっと十五匹。いや、まだ奥から湧いてくる。
「く、来るなぁっ!」
先頭の少年が、剣を構えて叫んでいた。
まだあどけなさの残る顔。少し大きめの鎧が、肩のあたりで不格好に浮いている。剣の刃先は震えていた。その両脇では、黒髪のおさげの少女が杖を抱えて涙目になり、大柄な少年が、巨大な盾を前に突き出して必死に踏ん張っていた。
「レオ、もう魔力が……!」
おさげの少女、ミュウが、かすれた声で言った。
「あと一発しか、撃てない……!」
「俺の盾も、もう、腕が……!」
大柄な少年、ノアの声は、ほとんど泣き声だった。
「大丈夫だ! 大丈夫だから!」
レオは叫んだ。自分に言い聞かせるように。
「必ず、誰かが、助けに来る! それまで、絶対に、諦めるな!」
ゴブリンたちが、ぎゃあぎゃあと嘲笑うように鳴いた。
背後は岩壁。出口は、昨日の昼に自分たちが入ってきた通路だが、そこは今、落石で完全に塞がっていた。小さな頭ほどの石が、天井まで山のように積み上がっている。
一匹のゴブリンが、短剣を振りかぶって飛びかかった。
レオは、目をぎゅっとつぶった。
そのとき。
「おい」
低く、気だるい声が、広間に響いた。
「こんなとこで座り込むな。現場の邪魔だ」
ゴブリンの動きが、ぴたりと止まった。
レオは、恐る恐る目を開けた。
洞窟の入口に、ツナギ姿の男が立っていた。ヘルメットのライトが、まっすぐに広間を照らしている。右手に重そうな工具箱。肩には大きな背負い袋。死んだ魚のような目で、広間の様子を眺めている。
その後ろには、ピンクのツナギを着たエルフの女性が、杖を構えて立っていた。
レオたちは、ぽかんと口を開けた。
「……え?」
「清掃……員?」
「ツナギ……?」
三人の間抜けな声が重なった。
ゴブリンたちも、一斉に、新しく現れた闖入者に向き直った。数十の黄色い目が、アレクを睨みつける。ぎゃあぎゃあと、威嚇の声が上がった。
アレクは、ふう、とため息をついた。
「監査官殿」
「はい」
「風で、あいつらの足を止められるか」
「……やってみます」
「10秒でいい。それ以上は要らない」
「承知しました」
シエルは、杖を前に突き出した。
空気が、ふわりと動いた。
洞窟の湿った風が、彼女の杖の先に集まり、渦を巻く。ピンクのツナギの袖が、ばさばさとはためいた。プラチナブロンドの団子頭から、ほつれた髪が一筋、風に踊る。
「風縛陣!」
透明な風の輪が、広間の入口を床から天井まで塞いだ。
ゴブリンたちが、ぎゃっと声を上げて前につんのめる。見えない壁にぶつかったように、後ろの連中が前の連中に押し潰されていく。
アレクは、その一瞬の隙に、広間の中へ駆け込んだ。
「立てるか」
「は、はい! でも、出口が!」
レオが、必死に後ろの岩の山を指さした。
「落石で、塞がってて! 来た道が!」
「知ってる。外から見た」
アレクは、岩の山に近づいた。
近づくというより、岩の山の隣にある、何でもない壁に近づいた。
彼は壁の表面を、手のひらでゆっくりとなぞった。ざらざらとした岩の肌。黒く湿った苔。ひび割れが、いくつも走っている。
「…………」
そして、ある場所で、手が止まった。
長さ約30センチ。斜めに入った細いひび割れ。
周りの小さなひび割れとは違って、ひとつだけ、不自然に真っ直ぐだった。
「ここだ」
「え?」
レオが、きょとんとした。
「ここって、ただの、ひび割れじゃ……」
「違う。これは、落石の割れ目じゃない」
アレクは、背負い袋から小さなバールを取り出した。
先端を、そのひび割れに差し込む。
「この迷宮は、人工的に掘られてる。そう設計されてる。地下で作業をする人間は、必ず逃げ道を作る。事故が起きたときのために」
「逃げ道……?」
「非常口だ」
アレクは、バールの柄を、ぐっと握った。
「この亀裂は、扉の継ぎ目だ。普段は壁に見えるが、テコを入れて、ここを押すと、奥へ開く」
背後で、ゴブリンの叫びが響いた。
「主任! あまり、持ちません!」
シエルの声が、苦しげに震えている。風の壁が、ミシミシと音を立てていた。
「あと10秒だ」
アレクは、バールに体重をかけた。
1秒。
2秒。
ミシ、と岩が軋んだ。
3秒。
カチン、と何かが外れる音がした。
4秒。
壁の一部が、ゆっくりと、奥へと沈み始めた。
5秒。
ごごご、という低い音とともに、人ひとりが通れるほどの隙間が、岩壁に開いた。
「うそ……」
ミュウが、杖を取り落とした。
隙間の向こうは、真っ暗な通路が、ずっと奥へと続いている。ひんやりとした風が、そこから吹き出していた。乾いた土の匂いがした。
「全員、入れ。早く」
「は、はいっ!」
レオたちは、転がるように隙間へ飛び込んだ。
ノアが、自分の体より大きな盾を引きずって、ぎりぎりで滑り込む。ミュウが、杖を拾い直して続いた。レオは、最後にもう一度、振り返った。
「あ、あの、あなたは——」
「いいから進め」
アレクは、シエルを振り返った。
「監査官殿、もういい! 下がれ!」
「はいっ!」
シエルが、杖を下ろして、広間を駆け抜けた。
風の壁が、ふっと消える。
ゴブリンたちが、津波のように押し寄せた。
アレクは最後に、隙間に体を滑り込ませた。
背後で、ガツン、と、ゴブリンの短剣が壁を叩く音がした。
アレクは、隙間の内側に回り込み、扉の縁に手をかけた。
「閉めるぞ」
重い石の扉が、ずずず、と元の位置に戻っていく。
ゴブリンの黄色い目が、閉じていく隙間から、ぎらりと光った。
ガタン。
扉が、完全に閉まった。
続いて、ドン、ドン、ドン、と、扉の向こうでゴブリンが体当たりする鈍い音が響いた。しかし、頑丈な石の扉は、びくともしない。
アレクは、内側から掛け金を下ろした。
カチリ。
小さな金属音が、通路に響いた。
通路は、荒い息の音で満ちていた。
狭い通路の壁に、レオ、ミュウ、ノアの三人が、ずるずると背をつけて座り込んでいる。シエルも壁に手をつき、肩で息をしていた。団子頭はすっかりほどけ、プラチナブロンドの髪が背中に流れている。
アレクは、扉の掛け金を確認してから、背負い袋を下ろした。
「怪我は」
「あ、ありません……」
レオが、震える声で答えた。
「み、みんな、無事です。ミュウも、ノアも……」
「よし」
アレクは、袋の口を開けて、携帯用の乾パンと水筒を取り出した。
「食え。飲め。一気に飲むな」
「あ、ありがとうございます……」
ノアが、大きな手で乾パンを受け取った。顔がくしゃくしゃになっている。大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれていた。
「う、うう……生きてる……」
「泣くのは後だ。食え」
アレクは、袋の底から、黄色いものを三つ取り出した。
「それと、これを」
「え?」
「ヘルメットだ。かぶれ」
「へ、ヘルメット?」
レオが、ぽかんとして、それを受け取った。
黄色い樹脂製の、少し傷のついた安全帽。側面には、白いペンで「安全第一」と書かれている。
「落石で頭を打ったら、死ぬぞ。次は、これを被って迷宮に入れ」
「あ、あの、でも、これ、あなたのでは」
「予備だ。持ってけ」
それだけ言うと、アレクは、通路の奥へ目をやった。
「この先は、地上に出る。30分ほど歩くが、足元に気をつけろ。もう危険はない」
「あ、あの!」
レオが、立ち上がった。
ヘルメットを胸に抱いたまま、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました! 俺たち、もう、死ぬかと思って……! あなたは、いったい、どなたなんですか!」
「ただの、原状回復士だ」
「げ、原状回復……?」
「迷宮の修繕係」
「しゅ、修繕……」
レオたちは、顔を見合わせた。
ミュウが、おずおずと手を挙げる。
「で、でも、あの、さっきの非常口は、どうして、分かったんですか? 私たち、あの壁を何度も調べたのに、全然、気づかなくて」
「調べ方が悪い」
「え」
「壁を見るんじゃなく、壁が、どうやって立ってるかを見る。そうすれば、どこが不自然か、分かる」
アレクは、懐中時計を確認した。
「時間だ。上へ行け。定時までに地上へ上がれよ」
「て、定時?」
「17時だ」
三人は、再びぽかんとした。
アレクは、くるりと背を向けた。
通路の反対側、さらに奥へ続く暗がりのほうへ。
「ど、どこへ行くんですか?」
「点検だ。この奥は、まだ見てない」
「で、でも、危険じゃ」
「危険だから、見るんだ」
彼は、ヘルメットのライトを灯し直した。
「監査官殿、新人たちを、地上まで送ってくれ」
「え、あ、はい! でも、主任は——」
「すぐ戻る。待ってろ」
アレクの背中は、暗がりの中に、ゆっくりと消えていった。
レオは、胸に抱いたヘルメットを、ぎゅっと握りしめた。
「……かっこいい」
ミュウとノアが、揃って頷いた。
「うん」
「うん」
その横で、シエルが、小さく溜息をついた。
「主任は、ただの、ツナギの人ですよ」
そう言いながら、彼女の口元は、ほんの少しだけ、緩んでいた。




