第006話:初級迷宮の遭難警報
午前8時25分。
アレクが事務所の戸を開けると、すでに先客がいた。
ピンクのツナギ。黄色いヘルメット。机の前できっちり背筋を伸ばして立つ、プラチナブロンドの団子頭。昨夜のうちに袖と裾を詰め直したらしく、今朝のツナギはずいぶんと体に合っている。ただ、色が桃色であることには何ら変わりがなかった。
「おはようございます、主任!」
「早いな。8時半と言ったはずだが」
「5分前行動は基本です。それと、コーヒーは自分で用意するというお話でしたので」
シエルは、机の上に置いた銀色の缶を、誇らしげに指さした。
缶の表面には、金の縁取りと、見るからに高そうな異国の文字が踊っている。蓋を開けると、事務所の空気が一変した。深く、甘く、わずかに果実のような酸味を含んだ香りが、ふわりと広がる。
「南方の高地で採れた豆です。実家の侍従長が、毎朝これを挽いておりまして」
「……いくらだ」
「百グラムで8000ゴールドです」
「俺のは百グラム300ゴールドだぞ」
「存じています。昨日の味で、だいたい」
悪気のない口調だった。悪気がないのが、いちばん堪える。
アレクは黙ってケトルに水を入れた。その背中を見て、シエルが慌てて付け加える。
「あ、あの、もちろん、主任のコーヒーが悪いと言っているわけではなくて」
「いや、いい。うまい方を飲む」
数分後。
二つのマグカップから、湯気が立ちのぼっていた。アレクは一口飲み、目をわずかに見開き、それから無言でもう一口飲んだ。
「……悪くない」
「ありがとうございます!」
シエルの顔が、ぱっと明るくなる。耳の先が、嬉しそうにぴくぴくと動いた。
そのとき、事務所の壁に取り付けた小さな魔導通信石が、ちりりん、と鋭い音を立てた。
机の上の水晶が、赤く点滅している。
アレクはカップを置き、受話の石に触れた。
「原状回復班」
『こちらギルド受付です! 緊急連絡です!』
水晶の向こうから、若い女性の声が飛び込んできた。いつもは落ち着いた受付嬢の声が、今は少し上ずっている。
『初級迷宮、ゴブリンの巣穴で、新人パーティの連絡が途絶えました! 昨日の昼に入場、本日未明までに帰還予定でしたが、まだ戻っていません!』
「何人だ」
『三人です。パーティ名は【若草の風】。冒険者登録から、まだ二週間です』
二週間。
アレクの目の色が、わずかに変わった。
「救助隊は」
『それが……今朝、北の鉱山で大規模な落盤が発生しまして、救助隊の主力がそちらに出払っています。残りの隊員が戻るのは、早くて午後3時になります』
「午後3時か」
アレクは壁の時計を見た。8時40分。
新人が迷宮に入って、すでに一晩。携帯食料は、せいぜい半日分。水は、昼までに尽きる。
受付嬢の声が、不安そうに揺れた。
『あの、アレクさんは、今日の巡回予定が』
「ゴブリンの巣穴の定期点検が、午前中に入ってる」
『はい、そうなんです。でも、それは救助ではなくて』
「巡回のついでに、見てくる」
一瞬の沈黙。
『…………お願いします』
「ああ。位置と、最後に連絡があった時刻を、送ってくれ」
通話を切る。
アレクが振り返ると、シエルがすでに装備ベルトのバックルを締め直していた。ヘルメットの顎ひもを、きゅっと結ぶ。
「同行します」
「危険だぞ」
「危険ならば、なおさら、私は管理局の人間として」
「わかった。聞きたいのは、足手まといにならないかだ」
シエルは、言葉に詰まった。
それから、小さく息を吸い、静かに答える。
「風の魔法なら、基本的な防御と、足場の保持ができます。実戦経験はありませんが、訓練は受けています」
「10分だ。靴は」
「安全靴です」
「よし」
アレクは工具箱を持ち上げて、壁の戸棚を開けた。
準備は、手早かった。
戸棚から次々と取り出される物が、三つの背負い袋に分けて詰められていく。
登山用の撚り縄が二巻。魔導ランタンが三つ。折りたたみ式の簡易担架。乾パンと干し肉、それに水筒が、人数分より多めに。携帯用の毛布。小型のバール。止血帯。魔力ポーションの小瓶が6本。
そして、予備のヘルメットが三つ。
「ヘルメット、ですか」
シエルが、袋の口からのぞく黄色いものに気づいた。
「新人は、持ってない。見つけたら、かぶせる」
「でも、救助が最優先では」
「現場に落ちてくる石は、救助の優先順位を聞いてくれない」
アレクは淡々と答え、背負い袋を肩に担いだ。
「いくぞ。馬車は、使わない」
「え? ゴブリンの巣穴までは、王都から北へ1時間半はかかりますが」
「小型の魔導軌道車がある。迷宮管理局の許可証で借りられる。倉庫の裏だ」
倉庫の裏には、本当に小さな乗り物が、ひっそりと停めてあった。
木製の荷台に、車輪が四つ。中央には魔導石の動力が据えられ、前方には運転用の握り棒が1本ある。アレクが握り棒に手を載せると、石がぽうっと青く光った。
「乗れ。しっかり掴まれ」
「ま、待ってください。シートベルトは」
「ない」
「ないんですか!?」
「ないが、掴まれば大丈夫だ」
「根拠は!?」
「経験だ」
シエルは、悲鳴を上げる暇もなかった。
軌道車は、ガクン、と前につんのめるように動き出し、そのまま滑るように加速した。風が耳元で唸る。王都の石畳が、すごい速さで後ろへ流れていく。彼女は荷台の縁を両手で掴み、ヘルメットを押さえ、必死に叫んだ。
「しゅにーん! 速度が! 速度が出すぎでは!」
「時速60キロだ。普通だ」
「普通じゃありません! 石畳が! 跳ねてます!」
「それも普通だ」
アレクの声は、風に紛れてほとんど聞こえなかった。
ゴブリンの巣穴の入口は、森の端の崖に空いた、不格好な裂け目だった。
軌道車が停まったとき、シエルは荷台の上で膝を抱えて震えていた。眼鏡がずれ、団子髪が半分ほどけている。
「……着いたぞ」
「……生きてます」
「当たり前だ。軌道車の事故率は、年に一度もない」
「それは、安全装置がないという意味では」
「あるぞ。俺の手だ」
シエルは何も言わず、ふらふらと荷台から降りた。
地面の感触が、ありがたかった。
入口の周囲には、森の湿った匂いが濃く漂っていた。苔の青い匂い、腐葉土、遠くで鳴く鳥の声。陽の光が木々の間から差し込み、入口の岩肌にまだらな影を落としている。そして、岩の裂け目の奥から、冷たい風が細く吹き出していた。獣のような、鼻の曲がる臭いが混じっている。
アレクは入口の地面にしゃがみ込み、地面の足跡を確かめた。
「三人分。昨日の昼のものだ。その後に、小さな足跡が、いくつも」
「ゴブリンの?」
「ああ。数は多い。十五、二十は、いるな」
彼は立ち上がり、ポーチから一枚の折りたたんだ紙を取り出した。
「設計図だ。この迷宮の」
広げられた紙には、細かい線で、入り組んだ洞窟の断面図が描かれていた。
シエルが覗き込む。
「これは……管理局の公式図面ですか?」
「いや、手書きだ。師匠の」
図面の隅に、小さく、あの文字が記されていた。
『G』
アレクは、図面のある一点を、指先でとんとんと叩いた。
「ゴブリンが入り込む前の、本来の構造が、ここに載ってる。一見ただの洞窟だが、実は、いくつかの『目地』が人工的に造ってある」
「人工的、ですか」
「ああ。誰かが、この洞窟を設計して、掘ったんだ。何のために、かは知らないが」
アレクは図面を畳み、ヘルメットのライトを灯した。
「行くぞ。新人たちが入った経路を、辿る」
「はい、主任」
二人は、岩の裂け目へと足を踏み入れた。
入口から数10メートルも進むと、外の光は完全に消えた。
湿った空気が肌にまとわりつく。壁は黒く濡れ、鍾乳石の先から落ちる水滴が、ぽとん、ぽとん、と間延びした音を立てていた。足元の泥が、靴底にねっとりと貼りつく。魔導ランタンの灯りが、壁の凹凸に不気味な影を踊らせた。
シエルは、アレクの数歩後ろを歩きながら、周囲をきょろきょろと見回していた。
「主任、ゴブリンは、夜行性ですよね?」
「そうだ。昼間は、巣に引っ込んでる」
「では、今は、あまり出てこない?」
「だといいが」
アレクは足を止め、片手を上げた。
シエルも、はっと動きを止める。
耳を澄ます。
水滴の音。風の音。自分の心臓の鼓動。
そして、その向こうに——
微かに、声が聞こえた。
ぎゃあ、ぎゃあ、という、錆びた金属をこすり合わせたような、耳障りな叫び声。
数が多い。
十匹、二十匹、いや、もっと。
その叫びの合間に、人間の声が混じっていた。
『——いやあああっ!』
少女の悲鳴だった。
シエルの顔が、さっと青ざめた。
「主任!」
「走るぞ」
アレクは地面を蹴った。
背負い袋が、がしゃがしゃと音を立てる。シエルも遅れまいと、必死にその背を追いかけた。ピンクのツナギの裾が、泥をはね上げる。
声は、洞窟の奥から響いていた。
悲鳴と、ゴブリンの叫びと、剣が岩に当たる金属音が、どんどん近づいてくる。
壁に反響し、天井に響き、洞窟全体が、絶叫しているようだった。
「持ちこたえろ」
アレクは、小さく呟いた。
「定時には、まだ早い」




