第005話:指さし確認の洗礼
午後1時。
ピンクのツナギ姿のハイエルフが、地下2階の東回廊に立っていた。
袖は三回折り返し、裾は膝のあたりでゴムバンドを巻いて留めてある。それでも胴まわりは余り、動くたびに布がぱたぱたと鳴った。頭にはぶかぶかの黄色いヘルメット。腰には、アレクが貸してくれた工具ベルトが、ちょこんとぶら下がっている。足元は黒い安全靴。
すれ違う冒険者の三人組が、そろって二度見して、何も言わずに通り過ぎていった。
「……やはり、目立ちますね」
「すぐ慣れる」
「何に、でしょうか」
「見られるのに」
アレクは、天井の破裂した排水管を見上げながら言った。
「さっさと終わらせるぞ。昼までに片づけるつもりだったが、予定が押した」
「申し訳ありません。私が着替えに時間を」
「いい。これは俺の見積もりミスだ」
彼は、ポーチから太い樹脂のバンドと、手のひらほどの金属板を取り出した。さらに魔導圧力計と、小型のバルブを三つ。それぞれを床に並べていく。
「監査官殿」
「はい」
「手伝え」
「えっ」
「手が2本足りない。ここに、立っていてくれ」
アレクが指差したのは、脚立の脚の位置だった。
シエルは目を丸くして、脚立の根元にしゃがみ込み、両手で支柱を握った。ひやりと冷たい金属の感触が、手のひらに張りつく。見上げると、アレクはすでに脚立の上まで登っていた。
工事の手順は、驚くほど地味だった。
まず、残っている泥を取り除く。管の外側に付着した緑色の粘液を、ヘラと布で一つひとつ拭っていく。次に、亀裂の入った部分を点検し、割れの長さを測り、圧がかかっている方向を確かめる。それから、管に樹脂のバンドを巻き、金属板で挟んで、ボルトで締め上げる。
ボルトを1本締めるたびに、アレクはレンチの握りを確かめ、指先でトルクを感じ取っていた。
「このボルトは、手で締められる限界まで。そこから、4分の一回転」
「どうして、4分の一なのですか」
「締めすぎると、管が潰れる。緩いと、漏れる。だから、ちょうどのところで止める」
「ちょうど、とは」
「経験だ」
「それは、答えになっていません」
「すまん。数字にするのは難しい」
アレクは、ふっと苦笑いを浮かべた。
「だが、慣れれば、手が覚える。3年やれば、勝手に止まる」
ボルトを全部締め終えると、次に彼は、小型のバルブを管の脇に取り付けた。魔導圧力計の針が、ゆっくりと動き出す。
「ここから、ガスを抜く。ゆっくり。急ぐと、また破裂する」
「……あの、少し、においが」
「あとで窓を開ける。我慢してくれ」
シュウウウ、と細く、長く、風が抜ける音がした。管の中に溜まっていたガスが、少しずつ外へ逃げていく。圧力計の針が、赤い領域から、黄色に、そして緑へと戻っていった。
シエルは、息を殺して、その針の動きを見つめていた。
一目盛り。また一目盛り。
針が、緑の中央に止まる。
「…………よし」
アレクが、小さく呟いた。
たったそれだけだった。
ガッツポーズも、決めゼリフも、派手な魔法の光もない。ただ、管の亀裂が静かに塞がり、ガスの音が収まっただけだ。
けれど、シエルは、胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じていた。
勇者が迷宮の主を倒したときに起きる歓声よりも、ずっと静かで、ずっと深い安堵が、足元から這い上がってきた。
「……今、何が起きたのですか」
「圧力が下がった。もう破裂しない」
「それだけで?」
「それだけだ」
アレクは、脚立の上から降りてきて、ツナギの膝についた埃を払った。
「地味だろ」
「……はい」
「だが、これがなかったら、この回廊は今日にも崩落して、通行止めだった。明日の朝、ここを通る新人が、頭から泥を被ってたかもしれない」
「…………」
「誰も気づかないで済むなら、それが一番いい仕事だ」
彼の声は、いつもの気だるいものだった。けれど、その言葉の奥には、シエルがまだ名前をつけられない種類の、静かな熱が宿っていた。
仕上げは、指さし確認だった。
「いいか、よく見てろ」
アレクはバインダーを開き、点検表を手に持つと、天井の管から順に、右手の人差し指でびしっと指していった。
「管、ヨシ」
声が出る。
「バルブ、ヨシ。圧力計、ヨシ。足場、ヨシ。養生、ヨシ」
指先が、ひとつ指すたびに、ぴたりと止まる。
「資材撤収、ヨシ。通路の障害物、ヨシ。立入禁止の表示、ヨシ」
淀みがなかった。
まるで、儀式のようだった。いや、儀式そのものだったかもしれない。何度も何度も、数え切れないほど繰り返した動作が、アレクの体に染み込んでいる。
最後に、彼は振り返った。
「監査官殿。確認印を」
「……私、ですか?」
「迷宮管理局の査察が入ってるんだから、最終確認はそっちの仕事だろ」
バインダーと、判子を差し出される。
シエルは、ゆっくりと両手でそれを受け取った。判子は、使い込まれて角が丸くなっている。握りの部分には、薄い油の染みがついていた。
「やり方は」
「さっきの通りだ。確認して、声に出して、指をさして、印を押す」
「……分かりました」
シエルは、息を吸った。
ヘルメットのずれを直し、点検表を睨み、脚立の上の管に向かって、おそるおそる右手の人差し指を伸ばした。
「……管、ヨシ」
小さな声だった。
「声が小さい」
「え」
「現場では、声を出さないと意味がない。自分の耳に聞かせるんだ」
「は、はい。管、ヨシ!」
「もう一度」
「管、ヨシ!」
「次」
「バルブ、ヨシ! 圧力計、ヨシ! 足場、ヨシ! 養生、ヨシ!」
声が、回廊に反響した。
最初は小さく震えていた声が、一つ、二つと重なるたびに、強く、はっきりとなっていく。ピンクのツナギの袖が、ひらひらと揺れた。碧い瞳は、真剣な光を宿して、点検表の一行一行を追いかけていた。
「資材撤収、ヨシ! 通路の障害物、ヨシ! 立入禁止の表示、ヨシ!」
最後の一行まで、一息だった。
ぱん、と判子が点検表に押される。
紙の上に、赤い印影が、くっきりと刻まれた。
シエルは、判子を見つめたまま、しばらく動かなかった。
回廊に、ふたたび静けさが戻る。壁の魔導油が、ちろちろと揺れていた。
「……これで、よろしいのでしょうか」
「ああ。完璧だ」
アレクは、バインダーを受け取り、確認印を確かめた。
「声も出てた。姿勢も悪くない」
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ掠れていた。
午後5時。
事務所に戻ったとき、アレクは壁の時計を見て、ほっと息を吐いた。
「17時ジャスト」
「定時、ですね」
「ああ。定時だ」
彼はヘルメットを外し、肩を回して、バインダーを机に放った。
シエルは、事務所の隅で、ピンクのツナギのまま、静かに立っていた。机の上には、三十二枚の質問書が、そのままの状態で置かれている。第七問の回答欄には「靴が悪い」。他の欄の大半は「はい」「いいえ」「現場を見れば分かる」。
彼女は、書類の束を、手に取った。
ぱらぱらとめくる。
それから、顔を上げた。
「アレク殿」
「なんだ」
「査察の結果を、ご報告します」
「聞こう」
シエルは、背筋を伸ばした。
眼鏡の奥の碧い瞳が、まっすぐに彼を見据える。
「本日の査察で、私は、あなたの職務に、規約違反は認められませんでした」
「そうか」
「また、過去の記録を調査した結果、あなたの原状回復による迷宮の損失防止額は、年間で、約3億2000万ゴールドに達しています」
「そんなにか」
「ご自身でご存じなかったのですか」
「数字は、見ないようにしてる」
シエルは、小さくため息をついた。
「……残業は、嫌いなのでしたね」
「ああ」
「では、ひとつだけ、お願いがあります」
彼女は、ピンクの袖をぎゅっと握りしめた。
「明日から、私を、現場に同行させてください」
「査察なら、もう終わっただろ」
「いえ。現場の勉強を、したいのです」
アレクは、眉を少しだけ持ち上げた。
シエルの顔が、またじわじわと赤くなっていく。
「先ほど、あなたが言った通り、数字にできないことがたくさんあります。ボルトの締め具合も、油の染み込む時間も、壁の叩いたときの音も。私は、それを……知りたい」
言い終えて、彼女は、勢いよく頭を下げた。
プラチナブロンドの団子が、ふわりと揺れる。
「お願いいたします。……主任」
アレクは、一瞬、きょとんとした。
それから、ゆっくりと自分を指差した。
「主任?」
「あなたは、現場の責任者です。肩書きは、主任と呼ぶのが適切かと」
「そんな肩書き、ないが」
「では、私がつけます。今日から、アレク主任です」
彼女の声は、少し震えていた。けれど、頭を上げた顔には、はっきりとした意志が宿っていた。
アレクは、コーヒーの空き缶を手に持ったまま、数秒考えた。
「……靴は」
「安全靴を、履きます」
「服は」
「……ピンクで、結構です」
一瞬の間があった。
アレクの口の端が、ほんのわずかに上がった。
「サイズ、直すか」
「はい!」
「あと、明日は8時半に来い。コーヒーは自分で用意しろ」
「承知しました、主任!」
シエルは、背筋をぴんと伸ばして、敬礼した。
ピンクのツナギが、窓から射す夕日に染まって、ほんのりと橙に光っていた。
その夜。
アレクが事務所の戸締まりをしていると、窓の外から、ばさばさ、と羽音がした。
一羽の白い鳩が、窓枠に降り立っていた。足に細い筒がくくりつけられている。ギルド連盟の紋章の入った、上質な紙の筒だった。
開いてみる。
一枚の紙きれが入っていた。紅いインクで、流れるような文字が踊っている。
『アレクちゃんへ 今日の黄金庫の件、お見事でした♡ ご褒美に、近いうちお茶でもいかが? エレノア』
文面の最後には、口紅の跡がくっきりと残っていた。
アレクは、紙を数秒間見つめた。
そして、無言で筒に戻し、ポケットに押し込んだ。
「……面倒が増えた」
窓の外では、王都の夜が、静かに更けていった。




