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『ダンジョン原状回復士の事件簿』〜勇者がぶっ壊した迷宮、敷金全額没収の上で元通りに直して帰ります〜  作者: 六井求真


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第004話:エリート令嬢、ピンクの作業ツナギを着る

ぽたり。


緑色の雫が、また一滴、床に落ちた。


頭上の古い排水管は、継ぎ目のあたりがぶくりと膨らんでいた。表面の鉄板には細かな亀裂が走り、そこから濁った液体がじわじわと滲み出している。生ぬるい腐葉土のような匂いが、鼻をついた。


「これは……」


シエルが顔を上げて、眉をひそめる。


「ただの水漏れではありませんね」


「ああ。圧がかかってる」


アレクは壁のパイプの走りを、指先で追った。壁の中を縦に抜ける太い管が1本。そこから枝分かれして、天井沿いに横へ伸びる管が3本。そのうち1本の先が、昨日の崩落で塞がっている。


「昨日の爆発で、通気管が潰れた。空気の逃げ場がなくなって、排水がせき止められてる。水と一緒にたまったガスが、管の弱いところを内側から押してるんだ」


「では、すぐに通報を」


「間に合わない。継ぎ目が、持たない」


その言葉が終わるより早く、管の継ぎ目が、ミシ、と音を立てた。


アレクは、迷わなかった。


「下がれ」


「え?」


彼はシエルの肩を掴んで、背後に突き飛ばした。


彼女の体が、金貨の部屋の入口のほうへ数歩よろめく。その直後、天井の管が、ばん、と鈍い音を立てて破裂した。


緑色の泥が、滝のように降り注いだ。


どろり、どろり、どろり。


臭いが爆発的に広がる。腐った藻と、古い魔力の澱と、何100年分かの油が混ざり合った、濃密な悪臭だった。アレクはその真下に立ち、ヘルメットとツナギの肩で、泥を全部受け止めていた。



数秒で、雨は止んだ。


音が引いたあとの回廊は、水を打ったように静かだった。壁も床も、ところどころが緑の粘液に覆われている。ぽた、ぽた、と天井から最後の雫が落ち、床に小さな花を咲かせた。


アレクは、ヘルメットの縁から垂れる泥を、手の甲でぬぐった。


「監査官殿。無事か」


「…………は、はい」


声が返ってきた。


アレクは振り返った。


金貨の部屋の入口に尻もちをついたシエルが、呆然とこちらを見上げていた。突き飛ばされた拍子に転んでいたが、足元の金貨がクッションになって、ケガはなさそうだった。


ただ。


彼女のスーツには、緑色の飛沫が、まだらに降りかかっていた。


突き飛ばされた方向が、悪かった。管の破裂は一度では終わらず、横に伸びた枝管の継ぎ目から、第二波が噴き出していたのだ。アレクの体の脇を抜けた泥の線が、ちょうど、立ち上がろうとしたシエルの胸から腰のあたりを、斜めに横切っていた。


濃紺の上着は、緑と茶色の斑模様。タイトスカートは、裾から腰までべったりと濡れている。銀縁の眼鏡のレンズにも、ねっとりとした泥が一筋、流れていた。


しん、と時間が止まった。


シエルは、自分の上着を見下ろした。


ゆっくり、ゆっくり、袖を持ち上げる。


どろり、と泥が肘のほうへ垂れた。


「わ、私の……」


声が、震えていた。


「私の、オーダーメイドの、シルフィード家御用達の仕立て屋が……三か月かけて仕立てた……」


眼鏡の奥の碧い瞳に、じわじわと水の膜が張っていく。


「……入局祝いに……お母様が……」


「悪い」


アレクは、素直に頭を下げた。


「俺の判断ミスだ。第二波を読めなかった」


「い、いえ……あなたが突き飛ばさなければ、私の頭に直接……」


シエルは、鼻をすんと鳴らした。


眼鏡を外し、レンズを袖でぬぐおうとして、袖がもっと汚れていることに気づき、手が止まる。


数秒の沈黙。


彼女は、小さな声で、搾り出すように言った。


「…………洗えば、落ちますよね」


「落ちない」


「……ですよね」


アレクは、ためらいなく言い切った。


「この泥は、魔力の澱が混ざってる。繊維の奥に入ると、化学反応で変色する。もう、二度と元の色には戻らない」


シエルの顔から、すうっと血の気が引いた。


「…………」


「だが、体は無事だ。それが一番だ」


「…………」


眼鏡の奥で、碧い瞳が、とうとう潤みきった。ぽろり、と涙が一粒、頬を伝って、緑色の泥の筋に混ざって消える。


アレクは、心の中で自分の頭を壁にぶつけた。


こういう場面で気の利いたことを言える人間であれば、勇者パーティの取り巻きにも、もう少し好かれていたかもしれない。



ガタガタと、事務所のロッカーを漁る音が、地上の小屋の中で響いていた。


迷宮の入口まで、二人は無言で戻った。シエルはヘルメットを両手で押さえたまま、アレクの三歩後ろをついてきた。道行く人々が、すれ違うたびに、ぎょっとした顔で彼女の服を見て、すぐに目を逸らした。


事務所に着くと、アレクはロッカーの奥に腕を突っ込んだ。工具や古い図面や、洗濯していない軍手をかき分けて、ようやくお目当てのものを引っ張り出す。


「これを着ろ」


彼が差し出したのは、折りたたまれた作業用のツナギだった。


色は、ピンクだった。


それも、パステルピンクどころではない。濃い桃色、いわゆるショッキングピンク。胸には、小さく「迷宮施工班」の刺繍が入っている。


シエルは、ツナギを受け取って、固まった。


「…………あの」


「なんだ」


「これは、何ですか」


「ツナギだ」


「色が、ピンクです」


「前に配属された新人が、置いていったやつだ。三か月で辞めた」


「な、なぜピンクを」


「支給品の色を選ぶとき、本人が『かわいいから』と」


シエルは、ピンクのツナギと、アレクの死んだ魚のような目を、何度も見比べた。


「他の色は」


「ない。サイズは、Sだ」


「…………」


「泥のついた服で現場にいると、皮膚に悪い。風邪を引く。着ろ」


それだけ言うと、アレクはくるりと背を向けて、ケトルに水を入れ始めた。背中が、一切の抗議を受け付けない形をしていた。


しばらくの間。


事務所の奥で、衣擦れの音がした。


アレクは、ケトルの音に集中するふりをした。


「あの、こちらを見ないでください」


「見てない」


「本当に、見ないでください」


「見る趣味はない」


「それはそれで少し腹が立ちます!」


やりにくい。


アレクはコーヒーの粉を、念入りにマグカップに入れ直した。


数分が経った。


「…………終わりました」


小さな声がした。


「そうか」


「あの、振り返っても、笑わないでくださいね」


「笑わない」


「絶対にですよ」


「約束する」


アレクは、ゆっくりと振り返った。


そこに、ピンク色のツナギを着たハイエルフが立っていた。


サイズは、確かに、Sだった。ただし、それは前任の新人の話で、シエルは身長が少し高い。袖は手首のあたりでつんつるてんになっているのに、胴まわりはだぼだぼで、膝のあたりに皺が寄っている。裾は引きずるほど長く、片方がくしゃりと床に垂れていた。


プラチナブロンドの髪は、泥の飛沫を拭いてまとめ直され、頭の上でぎゅっと団子に結ばれている。眼鏡のレンズは、丁寧に磨かれていた。耳の先は、これ以上ないほど真っ赤になっている。


彼女は、両手で袖を握りしめて、じっとアレクを睨んでいた。


睨んでいたが、目の端には、まだうっすらと涙が残っていた。


「…………何か、感想は」


「サイズが合ってない」


「そこではなくて!」


「袖を、まくれ」


アレクは、淡々と続けた。


「巻き込む危険がある。作業中の袖は、短い方がいい」


「あ、はい……」


シエルは言われたとおり、袖を二回、三回と折り返した。ぱたぱたと袖を整える仕草が、思いのほか幼かった。


アレクは、ふと気づいた。


この女は、ずっと完璧に見えていたが、実は、背伸びをしているだけなのかもしれない。三十二枚の質問書も、整いすぎたノックも、5センチのヒールも。


「…………似合ってる」


「え?」


「いや、なんでもない。コーヒー、飲むか」


「い、今、何か言いませんでしたか!?」


「言ってない」


「言いました! 絶対に言いました!」


「聞き間違いだ」


「聞こえました! 似合って……ま、まさか、からかっているのですか!」


「からかってない。事実を述べただけだ」


「どちらにしても!」


シエルは顔を真っ赤にして、床に垂れた裾を引きずりながら、じたばたと両腕を振った。


「こ、こんな格好、お父様には、絶対に見せられません……!」


その声が、小さな事務所の中にきんきんと響き渡った。


アレクはコーヒーを注ぎ、彼女の前に置いた。


「飲め。冷める」


「……いただきます」


シエルは、ピンクの袖でカップを両手に包み、ふうふうと息を吹きかけた。


一口飲み、目を見開く。


「苦い……」


「安物だ」


「ですが、温かいです」


窓の外では、冒険者たちの靴音が、いつもの朝のように響いていた。


ピンクのツナギと、泥だらけのハイヒール。


机の端に置かれた、ぐしゃぐしゃの三十二枚の質問書。


その一番上の紙に、アレクの書いた「靴が悪い」の文字が、小さく残っていた。

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