第003話:隠し扉の建て付け不良と古代の黄金
地下2階、東回廊。
安全靴に履き替えたシエルの足音は、さっきまでとはまるで違っていた。ごつ、ごつ、と鈍い音が石の床を叩く。靴底が分厚く、少しだけ歩幅が狭くなる。本人は黙って歩いているが、頬の赤みはまだ抜けきっていない。散らばった質問書は、アレクが一枚ずつ拾い集め、彼女の腕の中に戻してあった。
空気がひんやり重い。壁際を伝う水滴が、ぽとり、ぽとりと一定の間隔で床に落ちていた。魔導油の灯りは、この辺りだけ極端に暗い。昨日の勇者の爆発の余波で、燭台の半分が倒れたままだ。
「ここだ」
アレクが足を止めた。
通路の先は、天井まで積み上がった石の山で塞がれていた。昨日の崩落だ。大きな岩が三つ、小さな破片が数え切れないほど、互いに噛み合って壁を作っている。奥からは、冷たい風が細く吹き込んでくる。
シエルは書類を胸に抱え、岩の山を見上げた。
「これは、重大な危険箇所ですね。報告書によれば、この先の区画は旧時代の通路で、現在は使用されていないとのこと」
「ああ」
「であれば、これ以上の崩落を防ぐため、爆破して完全に埋め戻すのが最善です。管理局の標準手順書にも、そう記載されています」
アレクは答えず、ヘルメットのつばを指で押し上げた。それから腰のポーチから魔法メジャーを取り出し、岩の山の端に爪をかけて、ぐい、と引き伸ばす。
真鍮のメジャーが、ちり、と鳴いた。
「爆破は反対だ」
「なぜですか。安全第一でしょう」
「安全のためだ」
アレクは、岩の山の左右の壁にメジャーを当てた。目盛りを読む。右の壁、2メートル九十。左の壁、2メートル八十八。
「2センチ、ずれてる」
「それが、何か」
「通路は左右対称に造ってある。わざわざ2センチ詰めてるのは、壁の一部が動いてる証拠だ。つまり」
彼は、右手の壁の石を、とん、と手のひらで叩いた。
コン。
乾いた音がした。
その隣の石を、また叩く。
コン。
さらに隣。
ゴン、と、明らかに音が違った。重く、鈍く、中に何もない音。
アレクは、ふっと口の端をほんの少し持ち上げた。
「あった」
「何が」
「扉」
シエルは、目をぱちくりさせた。
壁の継ぎ目に、アレクが爪の先ほどの隙間を見つけたのは、それから5分後のことだった。
魔法の照明を近づけると、石の合わせ目が、周囲の目地と微妙に違っているのが分かる。ほんのわずか、色が濃い。そこだけ、何100年もの間、空気の出入りがあった痕跡だ。
「ここから、蝶番の位置を割り出す」
アレクはしゃがんで床の石の摩耗を指でなぞり、扉が開閉する円弧を目で追った。わずかに削れた半円の跡が、床にうっすら刻まれている。
「内側に開く扉だな。蝶番は上下に二つ。高さは、床から30センチと170センチ。ずっとサビついて、固着してる」
「サビ……ですか?」
「そうだ。何100年も湿気にさらされた鉄のサビだ。放っておいたらただの岩肌になる。だが、油を差してやれば、また動く」
腰のポーチから、小さな鉄の缶を取り出した。蓋を開けると、琥珀色の油がとろりと光る。鼻先にツンと刺さる、金属臭の混じった甘い香りが広がった。
「サビ取り用の浸透油。特製だ」
刷毛を使って、石の継ぎ目の隙間に、慎重に油を流し込んでいく。ぽたり、ぽたり。琥珀色の雫が、じわじわと石の奥へ染み込んでいった。
「これで10分待つ。サビが緩むまで」
「10分も?」
「浸透には時間がかかる。急ぐと折れる」
シエルは、胸の前で書類を抱えたまま、アレクの横顔を見つめていた。
さっきまで「だるい」としか言わなかった男の目が、いつの間にか別人のように澄んでいる。指先の動きに迷いがない。一滴の油を垂らす位置を、ミリ単位で選んでいる。
「あなたは、その、いつもこんなに丁寧に?」
「丁寧にしないと、時間がかかる。時間がかかると、残業になる」
「…………」
「残業は嫌いだ」
シエルは、何か言い返そうとして、結局やめた。
10分後。
「そろそろだ」
アレクは腰から、細長い魔法のバールを引き抜いた。先端が平たく、わずかに反っている。柄の部分は黒ずんで、手の形に凹んでいた。
「監査官殿、そこの石に手をかけてくれ」
「え、私が?」
「二人で押した方が楽だ。大きく押すんじゃなく、一定の力で押し続ける」
シエルは戸惑いながら、書類を床に置き、石の端に両手をかけた。冷たい。じっとりと湿っている。手のひらに、石のざらつきが張りつく。
「いいか、三つ数えたら押す。一、二」
「三」
ぐっ、と二人で体重をかけた。
バールの先端が、石と石の隙間に潜り込み、わずかなテコの力を生む。石の奥で、きしり、と小さな音がした。蝶番が、動いた。
きし、きし、きし——。
ゆっくりと、壁の一部が奥へと開き始めた。
サビの粉が、さらさらと細かな雨のように落ちる。何100年ぶりかに動かされた扉が、低く重い唸りを上げた。シエルは息を呑み、手を離すのを忘れていた。
隙間から、冷たい風が吹き出した。
そして、その向こうに——
光が見えた。
金色の、柔らかな光だった。
扉の奥は、小さな円形の部屋だった。
天井は低く、アーチ型。壁には古い魔導灯が埋め込まれ、アレクの魔力に反応して、ぽつり、ぽつりと灯りがともっていく。最初に気づいたのは、足元の感触だった。靴の裏が、石ではなく、何か柔らかいものを踏んでいる。
見下ろす。
床一面に、金貨が敷き詰められていた。
一枚一枚が親指ほどの大きさ。縁には、現在は使われていない古い王国の紋章が刻まれている。数えるのが馬鹿らしくなるほどの量だった。壁際には、宝石をはめ込んだ銀の杯、翡翠の彫像、きらめく首飾りが、棚にきちんと並べられている。
「…………え」
シエルの口から、ひとことだけ、声が漏れた。
眼鏡の奥の碧い瞳が、ゆっくりと見開かれる。まばたきするのを、完全に忘れている。持っていた書類の束が、腕の中からずるずると滑り落ち、床の金貨にばさばさと降り積もった。
「これは……旧王朝の……」
「そうみたいだな。第二期の紋章だ。1000年ほど前の」
「いえ、ええと、1200年前の金貨なら、一枚で、家が一軒——」
「たぶん、全部で数0億ゴールドになる」
「す、数……」
シエルの膝が、かくん、と折れた。
床に尻もちをつき、金貨の山の中にぽすんと沈み込む。数枚が空中に跳ね上がり、彼女の眼鏡の上に、きん、と乗った。
「あの」
「はい」
「これ、爆破して埋め戻していたら」
「全部、岩の下だな」
「…………」
シエルは、眼鏡に乗った金貨を、両手でそっと外した。
手が、少し震えている。
「アレク殿。なぜ、扉が隠されていると分かったのですか」
「寸法が合ってなかった」
「寸法?」
「通路の左右で2センチ違った。迷宮を造った人間は、几帳面だったんだろう。数字は嘘をつかない。違和感は、必ず理由がある」
アレクはしゃがみ込み、金貨を一枚、指先でつまんだ。
裏返す。表を見る。にやりとも笑わずに、小さく頷いて、元の山に戻す。
「あとは、ギルドに報告して、運び出せばいい。保管庫は王都にある。俺の仕事じゃない」
「でも、これはあなたの発見で」
「発見じゃない。点検だ」
彼はヘルメットを軽く叩き、立ち上がった。
「俺の仕事は、直すことだ。金は管理局のものだ」
「…………」
シエルは、金貨の山の中に座ったまま、アレクの背中を見上げていた。
古びた工具箱を片手に提げ、ツナギの背中には油の染みがいくつもある。ヘルメットの縁からはみ出した髪は、寝癖がついたままだった。
かっこよくはなかった。
少なくとも、勇者エドワードのように、金色の鎧で笑う人間のようには見えない。
けれど。
「……ひとつ、質問を」
「ああ」
「私は、あなたの業務を査察に来ました」
「そうだな」
「今のところ、査察の結果は——」
シエルは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
眼鏡のずれを直し、金貨を床に戻し、ぱん、とスーツのほこりを払って、立ち上がる。
「続行します」
それだけ言って、彼女は書類を拾い始めた。耳の先だけが、また少し赤くなっていた。
アレクは何も言わずに、通路のほうへ歩き出した。
そのとき。
天井の隅から、ぽたり、と一滴、何かが落ちた。
水ではなかった。もっと粘り気のある、濁った緑色の雫だった。床に落ちて、じゅ、と小さな音を立てる。
アレクの足が、止まった。
「監査官殿」
「はい?」
「そこ、動くな」
「え?」
次の一滴が、ぽたり、と落ちた。
頭上の古い排水管の継ぎ目が、ぶくり、と不吉に膨らんでいる。
アレクは小さくため息をついて、ポーチの中の養生テープに手をかけた。
「定時まで、あと6時間か」




