第002話:生真面目すぎるハイエルフ監査官
午前8時50分。
迷宮の入口脇に建つ木造の小さな事務所で、アレクは湯を沸かしていた。壁の大半は工具棚と図面棚に埋まり、窓際にはスチールの机がひとつ。机の上では、まだ取り込み中の書類が三つの山になって互いに寄りかかっている。コーヒーの粉はもう底をつきかけていた。
ケトルが、ことこと音を立て始める。
昨夜は結局、2時間ほどの残業になった。勇者の取り巻きが、酒場の支払いをアレクのせいにして騒ぎ立てたからだ。「迷宮の修繕費が引き落とされたのは、ギルドの規約によるもので」と説明したものの、酔っ払いに規約の条文は通じない。最終的には酒場の主人が「営業妨害だ」と全員をつまみ出してくれて、それで終わった。
マグカップに湯を注ぐ。立ちのぼる香りを吸い込み、ひと口。
苦い。
安いコーヒーの味に、少しだけ肩の力が抜けた。
そのとき、事務所の入口の戸が、コン、コン、と二度叩かれた。きっかり二回。間隔まで測ったような、整いすぎたノックだった。
アレクはカップを持ったまま、壁の時計を見た。
8時58分。
「開いてる」
戸が開く。
朝の光の中に立っていたのは、あまりに事務所に似合わない人物だった。
腰まで届くプラチナブロンドの髪は一筋の乱れもなく、背筋は定規を当てたようにまっすぐだ。耳は細く長く尖り、透き通るような碧い瞳が、銀縁の眼鏡の奥からこちらを見据えている。身につけているのは、仕立てのいい濃紺のタイトスーツ。足元は磨き上げられた黒のハイヒール。左腕には分厚い書類の束を抱えていた。
ハイエルフの女性は一歩踏み込み、きびきびと一礼する。
「迷宮管理局より参りました。本日付で首席監査官を拝命いたしました、シエル・フォン・シルフィードです。アレク殿ですね」
「ああ」
「失礼ですが、お約束の時刻まであと2分あります。お茶の時間をいただいても構いませんか」
「もう終わった」
「そうですか」
シエルは、ほんの一瞬だけ、机の上のコーヒーカップを見た。事務所の中に漂う粉っぽい空気と、傾いだ書類の山と、窓枠にぶら下がった乾いた軍手の列を。眼鏡の奥の瞳が、わずかに細くなる。
「先に申し上げておきます。私は本日、あなたの業務を査察するために来ました」
「そうか」
「昨夜、勇者エドワード様の口座から500万ゴールドが、本人の同意なく引き落とされたとの報告が管理局へ上がっています」
「同意はある」
「はい?」
「冒険者登録のとき、本人が署名してる」
アレクは机の引き出しを開け、一枚の書類を取り出した。ギルド加盟規約の写しだ。紙の端がくたびれて、ところどころ茶色く染みている。何度も人に見せてきた証拠だった。
「第12条、第42条第三項。故意または重大な過失により共用設備を損壊した場合、損害額は損壊者の口座から即時徴収される。本人が署名した規約だ」
シエルは、書類を受け取って目を落とした。
数秒。
彼女の指が、条文の上をゆっくりとなぞった。
「……第42条第三項。確かに記載があります。ですが、これは本来、被害が確定した後にギルド側の審査と本人への通知を経て徴収するものです。あなたが現場で勝手に査定して、その場で引き落とすのは、手続き上の越権行為です」
「現場で査定するのが仕事だ。通知は、引き落としの直後に本人の端末へ出る」
「それでは順序が逆でしょう!」
シエルの声が、少しだけ上ずった。
アレクは、コーヒーをひと口飲んでから言った。
「3年前に、ギルドの総会で決まってる。迷宮管理局の副長官が承認した特例だ。審査を待ってる間に、現場が二度崩れた」
書類をめくる音が、止まる。
シエルは表情を変えないまま、小さく息を吸った。それから、書類の束をぱらぱらとめくり、ある一枚を抜き出す。数秒間、無言で読み。
「…………確かに、特例措置の承認印があります」
「だろ」
沈黙が落ちた。ケトルの湯が、しゅんしゅんと冷めていく音だけが聞こえる。
シエルは姿勢を正した。ほんのわずかに、頬が赤くなっている。
「規約上は、問題なしと認めます。ですが、問題は規約ではなく、実態です」
彼女は抱えていた書類の束を机の上にどん、と置いた。
「質問書を三十二枚、用意してきました。全項目に書面で回答をいただきます」
「三十二枚」
「はい。勇者様の功績を評価すべき立場の管理局として、あなたが公正に職務を行っているかを確認する義務があります。回答は、本日の業務終了までに」
アレクは、いちばん上の紙に視線を落とした。
『一、あなたはなぜ清掃員を名乗っているのですか』
「清掃員じゃない。原状回復士だ」
「では訂正して記入してください」
「訂正は要らない。名乗ってない。周りが勝手に呼んでる」
「では、そう記入してください」
アレクはペンを取り、一行ずつ答えを書き始めた。
『一、名乗っていない。周りが呼んでいる』
『二、はい』
『三、いいえ』
『四、現場を見れば分かる』
十枚目のあたりで、シエルの眉がぴくりと動いた。
「ちょっと待ってください。回答が短すぎませんか。『はい』『いいえ』『現場を見れば分かる』だけでは、査察の記録として成立しません」
「見れば分かる」
「それを書面にするのが私の仕事です!」
アレクは、ペンを持ったまま、窓の外を見た。
木漏れ日の中、迷宮の入口の石段に、今朝も数組のパーティが並んでいる。その中のひとつ、少し大きめの鎧を着た少年が、緊張した顔でまわりを見回していた。装備がまだ新しく、剣の鞘に傷ひとつない。
「監査官殿」
「はい」
「現場へ行こう」
「質問書が先です」
「書いてたら夜になる。現場を見ながら質問してくれ。移動中なら、歩きながら答えられる」
シエルは数秒考え、頷いた。
「分かりました。では、同行します」
「その靴で行くのか」
アレクの視線が、シエルの足元に向いていた。磨き抜かれた黒のハイヒール。かかとは細く、5センチはあるだろう。
「何か問題が?」
「迷宮の床は石だ。濡れてる。ところどころ、昨日の瓦礫もある」
「問題ありません。私は5歳から姿勢の訓練を受けておりますので、ヒールでの歩行には慣れています」
自信に満ちた答えだった。
アレクは小さく頷いて、何も言わなかった。
事務所の戸棚から、予備のヘルメットと安全靴を一足、取り出す。
「迷宮に入るなら、ヘルメットは必須だ。管理局の規定にもある」
「承知しています。ヘルメットは、持参いたしました」
シエルは、鞄の中から白い小さな帽子のようなものを取り出した。エルフの紋章が金糸で刺繍されている。
「……それはヘルメットじゃなくて、儀礼用の帽子だ」
「はい?」
「落石を防ぐ力はゼロだ」
「そんなはずは……」
「石の重さを知ってるか。小指の爪くらいの欠片でも、天井から落ちれば、頭の骨にヒビが入る」
シエルは、帽子と、アレクの差し出す黄色いヘルメットを交互に見た。
数秒の沈黙。
「……ですが、それはあまりに、美しくありません」
「じゃあ、頭に穴が開いてもいいんだな」
ぐ、と喉が鳴った。
シエルは唇を引き結び、儀礼用の帽子を鞄に戻し、黄色いヘルメットを両手で受け取った。目を逸らしたまま、ゆっくりと頭に載せる。
サイズは、ぶかぶかだった。
眼鏡の上まで落ちかかったヘルメットを、彼女は無言で押し上げる。耳の先がほんのり赤い。アレクは、見なかったことにした。
「それと、これを」
戸棚の奥から出した工具箱を、机の上に置く。古い鉄の箱だ。あちこちに傷がつき、蓋の隅には角が丸く削れている。アレクは箱を開け、中のメジャーや水平器を点検し始めた。
「古いのですね、その工具箱」
「師匠のお下がりだ」
蓋の裏側を、シエルが何気なく覗き込む。
そこには、小さな文字が彫られていた。
『G』
たったひとつ、不器用に刻まれた文字。その下に、細い線で描かれたレンチの絵があった。
「Gとは?」
「知らない。師匠が彫った。聞いても教えてくれなかった」
アレクは、ぱたん、と蓋を閉じた。その手つきが、ほんの少しだけ丁寧だったことに、シエルは気づいた。気づいたが、口には出さなかった。
迷宮の入口をくぐると、空気が変わった。
外の光が遠ざかり、ひんやりと湿った風が頬を撫でる。壁に灯る魔導油の光が、ちろちろと揺れていた。足音が石の天井に反響して、カツカツと軽い音を立てる。
アレクは、安全靴の底で石の床を踏みしめながら歩いた。靴底のゴムが、濡れた石に張りついて、きゅっと小さく鳴く。その後ろを、黒いハイヒールが、一歩ごとにカツン、カツンと硬質な音を響かせた。
「第四問」
シエルが、書類を抱えたまま歩きながら読み上げる。
「あなたは、なぜ勇者様方の迷宮攻略に批判的なのですか」
「批判してない」
「では、なぜ請求書を」
「壊したから」
「ですが、勇者様のおかげで、迷宮の魔物は大幅に減っています。人々の生活が」
「それは助かってる。だが、壊すのと倒すのは別の話だ」
アレクは、歩きながら壁のヒビを指先でなぞった。
「魔物を倒すなら、壁を壊す必要はない。壊す理由が見栄えだけなら、それは勇者の仕事じゃない。ただの」
「ただの?」
「器物破損」
シエルは、口を開きかけて、閉じた。
地下2階への階段にさしかかる。
段差の上に、昨日の落石のかけらが散らばっていた。大きいものは握りこぶしほど。小さなものは砂粒になって、湿った石段に張りついている。
アレクは足元を確認しながら、一段ずつ、慎重に下りていく。
後ろから、カツン、という音が響いた。
そして、カツン、カツン、と急ぎ足になる音。
そして——
ずるっ。
「あ」
小さな声が、すぐ背後で聞こえた。
アレクは、反射的に振り返っていた。
階段の途中で、シエルの体がぐらりと後ろへ傾いていた。細いヒールの先が、濡れた石のかけらを踏み抜いている。両腕の書類が宙に舞い、三十二枚の質問書が、ばさあっと花びらのように散った。碧い瞳が大きく見開かれる。
声は出なかった。
アレクは、迷いなく一歩踏み出す。
右手が、シエルの腰の後ろにまわる。左手は、彼女の肘を支えた。
体重が、胸に受け止められる。細身の割に、意外にずしりと重みがあった。ふわり、と柑橘のような香りがした。眼鏡がずれて、鼻の先に落ちかけている。
シエルは、目を閉じたまま固まっていた。
数秒。
ゆっくり、まぶたが持ち上がる。
すぐ目の前に、死んだ魚のような目をした男の顔があった。
「…………」
「…………」
「靴」
アレクは、淡々と言った。
「安全靴を履け」
「……は、はい」
シエルの顔が、耳の先まで、真っ赤に染まっていた。
散らばった質問書が、一枚、二枚と、ひらひらと階段の下へ落ちていく。その一枚が、ちょうどアレクの安全靴の上に、ぴたりと着地した。
見ると、第七問と書かれていた。
『あなたは、監査官である私を、どのように評価しますか』
アレクは、紙を拾い上げてしばらく眺め、ペンを取り出して、ひと言だけ書き込んだ。
『靴が悪い』




