第086話:世界の耐用年数:あと30日の宣告
地下50階の基幹ポンプ室に、重苦しく冷たい沈黙が垂れ込めていた。
超古代のアダマンタイト装甲壁に刻まれた、黄金色の警告メッセージ。
1000年、誰も触れることのなかった迷宮のオペレーティングシステムが、自らの寿命を告げるかのように、規則的な明滅を繰り返している。
――【警告:世界環境維持システム、耐用年数(1000年)超過】
――【基幹魔力循環ポンプ中枢、完全停止シークエンス起動まで……残り30日】
その文字を目にした瞬間、現場にいたすべての職人たちが言葉を失った。
ドワーフの屈強な工兵たちも、魔王軍のゴブリンたちも、手にしたレンチやハンマーを取り落としそうになりながら、ただただ呆然と黄金の光を見つめている。
魔導計器のデジタル数字は冷酷にカウントダウンを刻み、残り秒数が刻一刻と減り続けていた。
「た、耐用年数って……迷宮の設計寿命が1000年だったということですか……!?」
ルシアが両手で小さな羊角を押さえ、震える声で叫んだ。
「人間と魔族の戦争とか、軍事タカ派の暴走とか、そういう政治的なことじゃなくて……そもそもこの世界の大地を循環させている超古代の機械そのものが、物理的な寿命限界を迎えているんですか……!?」
「その通りだ」
ガントが足場の手すりに油まみれの背中を預け、苦い煙草の煙のような息を吐き出した。
「1000年前、初代ギルド総帥と初代魔王が談合マッチポンプ協定を結んだのも、元を正せばこの『超古代インフラ』の存在を知っていたからだ。奴らは迷宮の管理維持という大義名分を掲げて民衆から莫大な税金と資材を巻き上げていたが……インフラの根幹である『始祖コア』の大規模修繕からは目を背け、小手先の局所補修だけで1000年間誤魔化し続けてきやがったんだ」
「なんて無責任な……!」
シエルが手帳の角を指先が白くなるほど強く握り締めた。
「1000年後の私たちが、そのツケを丸ごと払わされるなんて……! こんなの、あまりにも理不尽すぎます!」
「親父さん。始祖コアとはどこにある」
アレクが手帳に鉛筆を走らせながら、極めて冷静な声で尋ねた。
「この真下だ」
ガントが床の頑丈なマンホールハッチを安全靴の踵でトンと蹴った。
「地下100階……通称『世界の心臓』、始祖ダンジョンの最深核だ。そこにあるメインコアの超巨大バルブと魔力フィルターを全部分解清掃して、劣化した古代パッキンとベアリングを全部新品に交換する『完全オーバーホール』をやれば、耐用年数はさらに1000年延長される」
「完全オーバーホール……」
アレクの瞳が、職人としての鋭い光を帯びる。
「だがな、アレク。規模が違いすぎる」
ガントが首を横に振った。
「始祖コアの全高は500メートル。必要な足場パイプは数100万本。交換すべき魔力フィルターは数千枚。しかも地下100階までの全ルートの地盤を固め、超高圧魔力蒸気を逃がしながらの突貫工事だ。古代の設計書によれば、始祖コアの周囲には『原初の魔力乱流』が渦巻いており、通常の魔法障壁では数分で消滅する。物理的な防護足場と、超高密度のグラウト遮蔽壁を同時に施工しながら進まなければ、現場に近づくことすらできねえ」
「原初の魔力乱流か。……だが、魔力乱流といえども、高圧流体の噴出であることに変わりはない。適切なバイパスダクトを仮設し、流速を減衰させながら足場を組めば、施工エリアの気流は10分に安定化できる」
アレクは即座に断面図を描き、気流の逃がしルートを矢印で書き込んでいく。
「俺とお前、そしてここにいる数10人の腕利き職人だけでどうにかなる規模じゃねえ。最低でも数0万人……いや、10万人の熟練作業員と、天文学的な量の資材が要る」
「10万人……!?」
エドワードが目を剥いて叫んだ。
「王都中の冒険者と、魔王軍の全兵力をかき集めても足りねえぞ! しかも残り時間はたったの30日だ! そんな短期間で10万人を組織して、地下100階の修繕工事なんてできるわけがねえ!!」
エドワードの叫びは、現場にいる全員の偽らざる本音だった。
世界の滅亡まで、あと30日。
要求されるのは、人類と魔族の歴史上、一度も行われたことのない空前絶後の超巨大突貫工事。
あまりのスケールの大きさに、歴戦のバルガン親方すら息を呑み、言葉を失っていた。
だが――。
ただ一人、黄色いヘルメットの鍔をクイと押し上げたアレクだけは、微塵も絶望していなかった。
「できるさ」
アレクの口から、迷いのない言葉が放たれた。
「……え?」
シエルとルシアが同時に顔を上げる。
「人数が足りないなら、全員を作業員にすればいい。冒険者ギルド連盟の全ハンター、魔王軍の全兵士、教会の僧侶、ドワーフの石工、そして地上の民衆……生き残りたい者全員にヘルメットを被らせ、工具を持たせる」
「な、何を言ってるんだアレク!?」
エドワードが泡を食って身を乗り出す。
「昨日まで殺し合ってた人間と魔族だぞ!? 一緒に現場作業なんてできるわけがねえだろ!」
「できる。現に、お前たちを見ろ」
アレクがエドワードを指差した。
「光の勇者だったお前が、今やドワーフのバルガン親方やサキュバスのルシアと肩を並べ、命がけで足場を組んで世界を救った。現場に人種や過去の因縁など関係ない。目の前のインフラを直し、生き残るという共通の目的があれば、誰だって一流の職人になれる」
アレクの言葉に、エドワードがハッと息を呑んだ。
そうだ。自分も、バルガンも、ルシアも、シエルも、リリアナも……昨日までは敵同士だったり、立場が違ったりしていた。
だが、黄色いヘルメットを被り、泥に塗れて作業をした瞬間から、確かな絆で結ばれた『現場の仲間』になっていたのだ。
「親父さん、一緒に地上へ戻って体勢を立て直しましょう」
アレクが声をかけた。だが、ガントは首を静かに横に振った。
「バカ言え、アレク。10万人の作業員を組織して資材を地下100階まで降ろすのに、どれだけ早くても10日以上はかかる。その間、あの世界の心臓のバイパスバルブを誰が抑えておくと思ってやがる? 放置すりゃあ、お前らが足場材を持って降りてくる前に、コアが傾いて大爆発しちまうぞ」
「……! まさか、親父さん一人で地下100階へ先回りする気ですか!?」
エドワードが目を剥いた。
「手動パイプレンチ1本ありゃあ、儂の命が尽きるまでの間、バルブの逆流くらい力任せにねじ伏せてやるさ。……アレク、お前は地上へ戻って、10万人のバカどもをきっちり束ねて資材を持ってこい。地下100階の最深核で……煙草を燻らせて待ってるぜ」
ガントは擦り切れた煙管を咥え、親指を立てて笑うと、一人でマンホールハッチの暗黒の中へと身を躍らせていった。
「……親父さん。必ず、工程通りに追いつきます」
アレクは深く一礼し、踵を返した。
師匠の命懸けの時間稼ぎを、1秒たりとも無駄にはできない。
「エレノア副ギルドマスターから、超法規的な全権委任状を受け取っている。魔王政府もギルド連盟も、決定権は現場監督官である私にある」
アレクはクリップボードをパチンと弾いた。
「これより地上へ帰還し――人類と魔族の全戦力を総動員する【全大陸合同・始祖ダンジョン突貫大改修計画】を立案する。工期は30日。世界の原状回復工事を始めるぞ」
「ピキュウウウッ!」
スライムのポチがアレクの肩の上で勇ましく跳ね上がった。
「……ハッ! 言ってくれるじゃねえか、アレク!」
エドワードが腰のチタンラチェットレンチをガチリと鳴らして前に出た。
「ジジイがたった一人で地下100階で踏ん張ってんだ! 全高500メートルの足場組みだろ!? オレが全大陸の足場鳶の総棟梁になって、何100万本の単管パイプだろうと寸分の狂いもなく組み上げてやるよ! 世界で一番デケエ足場を組んで、ジジイと世界の心臓を支えてやるぜ!!」
「がっはっは! ガントのじいさんを死なせてたまるか! ドワーフの全鍛冶ギルドに号令をかけて、500トンの交換用ミスリルボルトを24時間体制で鍛造させてやる!」
バルガン親方が太い腕を振り上げた。
「魔王軍の全輜重部隊を動員し、地下100階までの資材輸送路を即日開通させます!」
ルシアも真紅の瞳を輝かせる。
「教会と冒険者ギルドの全支部に通信を飛ばし、10万人の作業員登録と安全講習の受付を開始します!」
シエルが手帳にペンを走らせた。
静かな、しかし天地を揺るがすような決意の号令。
かつて憎しみ合い、殺し合っていた世界が、今、たった一つの『大規模修繕工事』と『一人の老職人を救うため』に、一つに束ねられようとしていた。
人類と魔族の命運を懸けた、前代未聞の全大陸現場総力戦が、ここに幕を開けたのである。




