第082話:ルシアの正式配属:合同営繕課の常駐へ
エドワードの昇格祝いの温かな余韻が宿舎の広場に漂う中、夕暮れの街道から、魔王軍の正式な伝令将校が馬を飛ばして駆け込んできた。
黒漆塗りの鞘に収められた、魔王の親書を携えた将校は、広場に整列した現場の職人たちを見回すと、ルシアの前で立ち止まり、深々と軍礼を捧げた。
「魔王城最高評議会より、特使緊急辞令の伝達である! 魔王軍施設管理営繕部所属、ルシア・サキュバス技術官、前へ!」
「は、はいっ!」
ルシアは緊張のあまり、小さな羊角をピンと真っ直ぐに直立させ、黄色いヘルメットを胸に抱えて直立不動の姿勢を取った。
隣で見守るシエルも、息を詰めてその様子を注視している。
将校が親書の封蝋を割り、広場全体に響き渡る朗々とした声で読み上げた。
「――辞令。貴官のバベル断層迷宮における卓越した技術的功績、とりわけ超古代炉心メルトダウン阻止および違法工作物解体における多大なる功労を称え、本日付をもって【国境合同安全営繕課・魔族側専任駐在官】に任命する。本メガダンジョンの恒久的維持管理のため、人間側現場監督官アレク・原状回復主任と共に、現地に常駐し現場指揮を執るべし!」
読み上げられた瞬間、ルシアの大きな真紅の瞳が、信じられないように大きく見開かれた。
「え……? こ、国境合同営繕課の……専任駐在官……? アレク主任と……ずっと、現地に常駐……!?」
「その通りだ」
将校が親書を手渡しながら、これまでの厳格な表情を崩して、心からの温かい笑顔を浮かべた。
「ボルドゴフ将軍の失脚に伴い、魔王政府の主戦派閥は完全に解体された。これからは君たちのような、真面目に現場を支える技術者の時代だ。魔王様直々にも『存分にアレク殿と力を合わせ、迷宮のインフラと民の安全を守りたまえ』とのお言葉を預かっている。誇りに思うが良い」
将校が手渡した羊皮紙には、魔王直筆の署名とともに、魔王軍営繕部の特級技術者バッジが添えられていた。
純銀製のそのバッジには、工具のスパナと魔界の炎が交差する意匠が刻まれている。
現場のゴブリン工兵たちやオークの作業員たちからも、割れんばかりの歓声が上がった。
「ルシア様、おめでとうございますぎゃあ!」
「俺たちの営繕部の誇りだ!」
「やったぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
次の瞬間、ルシアの喜びが大爆発した。
親書を受け取るや否や、抱えていたヘルメットを放り出し、パタパタと背中の黒いコウモリ羽を高速で羽ばたかせながら、アレクめがけて一直線に飛びついたのである。
「主任っ! アレク主任〜〜〜っ! 私、ずっと主任の現場にいられます! 王都へ帰る主任と離れ離れにならなくて済むんです!!」
ぎゅうううううっ!
ルシアの細い腕がアレクの首にしがみつき、豊満な胸元がアレクの作業着の胸ポケットを真正面から圧迫する。
ルシアの頬は真っ赤に染まり、頭の角がフニャフニャと幸せそうにアレクの顎先をくすぐっていた。
サキュバスとしての妖艶さはどこへやら、憧れの先輩とずっと一緒に仕事ができることに歓喜する、純情無垢な少女そのものの姿である。
「ぐふっ……ルシア、離れろ。気管が圧迫されて呼吸困難になる。それに作業着に魔界特産の香油が付着すると、次回のモルタル練り作業で油膜分離を起こす」
アレクは相変わらず真顔のまま、ルシアの頭をポンポンと叩きながら冷静に引き剥がそうとする。
だが――その現場に、氷河期が再来したかのような凄まじい絶対零度のオーラが立ち込めた。
「…………ちょっと、そこのサキュバスさん?」
ゴゴゴゴゴゴ……!
背後に仁王立ちしていたのは、記録用手帳を万力のような力で握りしめたシエルだった。
眼鏡の奥の瞳は完全にハイライトを失っており、青白い嫉妬の炎がメラメラと立ち上っている。
「公衆の面前で、我が冒険者ギルドが誇る現場監督官・アレク先輩に抱きつくなど、現場安全衛生規則第百条『作業中の過度な接触による集中力阻害の禁止』に抵触しています! 今すぐ離れなさい!!」
「嫌です〜! これは辞令交付に伴う公式な親睦のハグです! それに、私は魔王軍を代表する駐在官なんですよ? 主任の隣にいる権利は私にもあります!」
「な、なんですってぇぇぇっ!? アレク先輩の一番弟子兼専属補佐官は、この私です! 越境してきたサキュバスのチョロインさんに、先輩の隣を譲るわけにはいきません!!」
「だ、誰がチョロインですかぁっ! 私は主任の技術に心酔している、純粋な技術的弟子です!」
「いいえ、顔が完全に恋する乙女のそれです! ほら、離れなさい! 引っ張りますよ!」
「離しません〜! 主任の作業着の、この機械油と石灰の混ざった匂いが最高に落ち着くんです〜!」
ギャアギャアとアレクの左右の腕を引っ張り合う美少女二人。
サキュバスの怪力と、教会の炊き出しで鍛え上げたギルド職員の腕力が拮抗し、アレクの作業着の袖がミシミシと悲鳴を上げていた。
「おい、二人ともやめろ。作業服の引っ張り強度は四百ニュートンまでだ。袖が破れたら補修費を請求するぞ」
アレクの平然とした注意も、火花を散らす乙女たちの耳には一切届いていない。
「いいですかルシアさん! 常駐になったからには、現場飯の担当も5分五分です! 明日の朝食も昼食も、私が先輩のために最高の栄養バランス弁当を作ってきますからね!」
「受けて立ちますシエルさん! 魔界の宮廷料理仕込みの滋養強壮スープで、主任の疲労を完全にゼロにしてみせます!」
「「ふんだっ!!」」
プイッと顔を背け合いながらも、二人はどこか嬉しそうに作業着の袖を離した。
ライバルでありながら、共に現場を生き抜いてきた者同士の奇妙な信頼関係が、そこには確かに存在していた。
その光景を、焚き火の前でドワーフのエールをジョッキで呷っていたバルガン親方が、腹を抱えて大笑いしながら眺めていた。
「がっはっは! 若いってのはいいモンだな! 迷宮の亀裂は直せても、女の修羅場の亀裂はどんなセメントでも埋められねえぜ!」
「……全くだな」
新品のチタンラチェットレンチを腰袋に差したエドワードが、苦笑いを浮かべながらリリアナに話しかけた。
「なあリリアナ、あいつ、迷宮の地盤沈下は2時間で止めたくせに、自分のモテ期沈下には一切気づいてねえぞ。前世でどんな感情の安全弁を閉じてきたらあんな無敵の鈍感男になれるんだ?」
「ふふ、アレク様にとっては、構造物の歪みの方が乙女心よりも遥かに分かりやすいのでしょうね」
リリアナがお茶をすすりながら、慈愛に満ちた毒舌を吐く。
「ピキュッ!」
足元ではスライムのポチが、ルシアとシエルの足元を器用にすり抜けながら、落ちていたヘルメットを回収してピカピカに磨き上げていた。
激闘の後の、温かく騒がしい夕暮れ。
こうして、バベルの断層迷宮における東西合同の原状回復体制は、これ以上ないほど強固に――そして騒々しく確立されたのである。
その夜、宿舎の食堂では、人間とドワーフと魔族が肩を組み、ルシアの特製魔界鍋とシエルの焼きたてパイを囲んで、夜遅くまでエールを酌み交わした。
種族の壁も、国境の隔たりも、現場の安全と補修という共通の目的の前には消え去っていた。
アレクは相変わらず端の席で、明日の点検工程表に黙々と鉛筆を走らせていたが、その横にはシエルとルシアが甲斐甲斐しく料理を運び、ポチが満足そうに丸くなって寝息を立てていた。
だが――このささやかな平和を、大陸全土を揺るがす未曾有の災厄が、地殻の底から引き裂こうとしていた。
大地を揺るがす不吉なサイレンが鳴り響くまで、あと数時間のことである。




