第069話:エドワードの決意:足場安全帯の重み
合同安全協議会の緊急幹部会が解散し、バベルの断層迷宮の現場宿舎が深い静寂に包まれた深夜。
人間側の仮設宿舎の一室、月明かりの代わりに魔導ランタンの淡い橙色が照らす粗末な部屋で、エドワードは一人、木製のパイプ椅子に腰掛けていた。
膝の上に置かれているのは、使い込まれた厚手の牛革製安全帯ベルトである。
かつて王都の高級武器屋で何100万ゴールドも投じて誂えた白銀の甲冑や、眩い宝玉が散りばめられた聖剣の鞘とはまるで違う。
油とモルタルの汚れが染み付き、幾重にも擦り切れた革の表面。
腰袋にはラチェットレンチ、モンキーレンチ、真鍮の小型水平器、そしてカチャカチャと硬質な金属音を立てる2本の大きな親綱フックがぶら下がっている。
「……はは、重てえな、おい」
エドワードは自嘲気味に呟き、フックの鋼鉄の冷たさを手のひらで確かめた。
ずっしりとした金属の質量。
それはかつて、自分が腰に佩いていた聖剣の重さとは全く異なる種類の『重み』だった。
聖剣を持っていた頃の自分は、常に虚勢と驕りに満ちていた。
魔王を倒す光の勇者。
民衆から黄色い歓声を浴び、ギルドの重役たちから持て囃され、どんな建造物も、どんな歴史ある古代遺跡も、魔物を倒すためという名分さえあれば力任せにぶち壊してきた。
壊せば壊すほど、派手なエフェクトが舞い散るほど、強大な力を誇示できると信じ込んでいたのだ。
だが――その結果がどうだったか。
1億2000万ゴールドという天文学的な敷金全額没収と損害賠償請求。
かつてのパーティメンバーからの冷酷な見切りと解散。
そして何より、現場に残されたのは、ただ無残に破壊された瓦礫の山と、インフラを失って途方に暮れる人々の悲壮な姿だけだった。
「オレは……本当に勇者だったのか……?」
木造の梁を見上げ、ポツリと独り言が漏れる。
「ただ頑丈な身体と魔力に物を言わせて、周りの迷惑も考えずに暴れて……壊して、偉そうに威張ってただけなんじゃないのか……?」
今日、15メートルの高所で組んだ足場の感触が、掌の豆を通じて鮮明に蘇る。
下から吹き上げる突風の中、自分が水平器を当て、トルクレンチでボルトを均等に締め上げた1本1本のパイプ。
一段組み上がるごとに、虚空の中に確かな『大地』が生まれていくあの感覚。
パイプを足で挟み、背筋をピンと伸ばして次の段を差し込んだ時の、全身の筋肉が一つに繋がるような快感。
そして最上段まで組み上げた時、下から見上げていた人間の職人たち、魔族のゴブリン工兵たちが上げてくれた、心からの歓声と拍手。
かつて魔物を斬り捨てた時に浴びた歓声は、どこか血生臭く、自分を化け物として恐れ敬うような距離感があった。
だが、今日の歓声は違った。
誰もが「ありがとう」「助かった」「これで俺たちも安心して上まで登れるぞ」という、純粋で温かい感謝の眼差しを向けてくれていたのだ。
そして何より――あの妥協を一切許さないアレクが、寸分の嫌味もなく放った言葉。
『筋がいいな。エドワード、お前には足場鳶としての天性の才能がある』
「……クソが。あんな淡々と言われちゃ、調子狂うだろ……」
エドワードは目頭をゴシゴシと作業着の袖で擦った。
勇者として散々煽られ、プライドをズタズタにされてきた宿敵から、一人の職人として腕前を真っ向から認められたのだ。
悔しいはずなのに、胸の奥が熱くて仕方がない。
「夜風に当たると、明日の作業に差し障りますよ。エドワード様」
鈴を転がすような静かな声が、開け放たれた宿舎の扉から届いた。
見上げると、粗末な木製の盆に湯気を立てる陶器のカップを二つ載せたリリアナが、優しげな微笑みを浮かべて立っていた。
「リリアナ……。起きてたのか」
「現場の薬草茶を淹れてまいりました。ドワーフの調合だそうで、筋肉の疲労回復と関節の柔軟性にとてもよく効くそうです」
「あ、ああ……サンキュ」
リリアナはカップを木机に置くと、エドワードの膝の上にある安全帯にそっと視線を落とした。
「随分と、手に馴染んできましたね。その革ベルト」
「……そう見えるか? 似合わねえだろ。元勇者様が、泥と油に塗れた作業ベルトなんてよ」
「いいえ、とてもお似合いです」
リリアナは迷いなく、きっぱりと答えた。
「かつて白銀の甲冑を纏っていた頃のエドワード様よりも、今の、黄色いヘルメットを被って誰かの足元を支えているエドワード様の方が……ずっと、誇らしく見えます」
「リリアナ……」
「聖女であった頃の私は、傷ついた人々を奇跡の光で癒すことばかりを考えていました。でも、怪我を治しても、住む家が壊れていれば人々はまた夜の寒さに凍えて倒れてしまいます。壊れたものを直し、雨風を凌ぐ屋根を作り、足場を組んで高所へ登れるようにする……その当たり前の営みがいかに尊く、人々の生活を支えているか……アレク様とこの現場に来て、初めて知りました」
リリアナはカップを両手で包み、窓の外に広がる星空のような迷宮の青白い燐光を見つめた。
「エドワード様は、壊すだけの人間ではありませんでした。その強靭なお身体と、恐れを知らない強い心は……今、誰かを落石から守り、誰かを高い場所へと導くための『足場』になれるのです」
「……足場、か」
エドワードは安全帯を強く握りしめた。
その言葉が、胸の奥底に溜まっていた澱みを、清らかな水のように洗い流していく。
「明日、地上要塞のドリル戦車と、地下最深部の魔導砲の現場に突入する。アレクは平然と言ってたが……一歩間違えれば、両方の軍隊から集中砲火を浴びて死ぬかもしれねえ現場だ」
「はい。とても危険な現場です」
「だがよ……オレが足場を組まなきゃ、あいつらはあの高所のダクトにも、要塞の外壁にも登れねえんだろ? アレクも、シエルも、ルシアも、バルガンのオッサンたちも……オレの組んだ足場を踏んで、上に登っていくんだ」
エドワードは立ち上がり、安全帯を腰にカチャリと巻きつけた。
バックルが強固に噛み合い、頑丈な二丁掛けのフックが左右の腰骨に心地よい重みを与える。
その瞳から迷いは完全に消え去り、かつて失っていた鋭い光が、より力強い職人の誇りとなって宿っていた。
「オレが支えてやるよ。誰一人として、オレの組んだ足場から落っことしたりしねえ。あいつらの命も、現場の安全も……主任鳶補佐のエドワード様が、全部まとめて担ぎ上げてやる!」
「ふふ、頼もしいですね。……でもエドワード様、日当200ゴールドの昇給と危険手当1万ゴールドのためにそこまで張り切っていると、またアレク様に『現金な奴だ』と呆れられますよ」
「うぐっ……! い、いいだろ別に! 借金返済は男の義務だ!! 一日も早く1億2000万ゴールド完済して、堂々とアレクの野郎の前に立ってやるんだよ!」
照れ隠しに叫ぶエドワードと、クスクスと優しく笑うリリアナ。
足元では、部屋の隅で丸くなっていたスライムのポチが、エドワードの安全靴をピカピカに磨き上げて「ピキュッ!」と親指を立てるようなジェスチャーをしていた。
宿舎の暗がりで、元勇者の魂が完全に現場の要として覚醒を遂げたその夜。
誰もが、明日の朝から始まるはずの潜入作戦に備えて静かに息を潜めていた。
――だが、運命の歯車は、彼らが仕掛けるよりも遥かに早く、容赦のない暴力的な爆音とともに回転を始めたのである。




