第065話:ルシアの家庭料理と現場飯
正午を告げる鐘の音が、バベルの断層迷宮の吹き抜け回廊に重々しく響き渡った。
迷宮の内部には太陽光が届かないが、合同安全協議会の発足以降、規則正しい休憩時間の確保はアレクの鉄壁の管理下にあった。
「12時ちょうどだ。全員、作業の手を止めろ。工具の整理整頓、資材の片付け、電源および魔力コックの元栓を遮断。1時間の昼休憩に入る」
アレクの張りのある声が現場に響くと、あちこちから「ふうーっ」「腰が痛え」と安堵のため息が漏れた。
冒険者たちも魔族の工兵たちも、ヘルメットを脱いで額の汗を拭い、資材の木箱や平らな岩場に腰を下ろしていく。
現場における昼飯――通称『現場飯』は、過酷な肉体労働を乗り切るための最大の娯楽であり、生命線だ。
「おいおい、見てくれよこれ! ドワーフの野営鍋で煮込んだ、干し肉と芋の岩塩シチューだぜ! パンを浸して食うと最高なんだよ!」
「こっちのゴブリン特製、地底トカゲの燻製肉サンドもいけるぞ! 噛めば噛むほど脂が染み出して精がつくぎゃあ!」
「おお、ちょっとそれ交換しようぜ!」
昨日までは種族の違いからいがみ合っていた人間と魔族が、今では弁当を突き合わせながら屈託なく笑い合っている。
現場で共に汗を流し、安全帯を掛け合った者同士の間には、国境や種族の壁を軽々と飛び越える奇妙な連帯感が芽生え始めていた。
そんな中、現場の隅に設けられた休憩用ベンチに腰を下ろしたアレクの前へ、もじもじと身を捩らせながら歩み寄る一つの影があった。
魔王軍施設管理営繕部所属、サキュバス令嬢のルシアである。
トレードマークである黄色い安全ヘルメットの両脇から生えた小さな羊角を恥ずかしそうに下へ向け、胸元には両手で大切そうに抱えられた、紫色の絹布で包まれた三段重ねの漆塗り重箱があった。
「あ、あの……アレク主任……!」
「ん? ルシアか。どうした、午後のバイパス管の溶接図面に不備でもあったか?」
「ち、違いますっ! 図面じゃなくて……その、お昼ご飯です!」
ルシアは深呼吸をして、真っ赤になった顔を上げると、思い切って重箱をアレクの膝の上へ差し出した。
「これ……私が今朝、魔王軍の宿舎の調理場で手作りしてきたお弁当なんです! いつも主任には現場で迷惑ばかりかけて、施工の基本から教えていただいてばかりですから……その、お礼と言ってはなんですが、現場で働く職人さんの活力になればと思いまして……!」
「お前の手作り弁当か?」
「は、はいっ! 魔界の家庭料理なので、人間の主任のお口に合うかどうか自信はないのですが……毒味と魔力中和は完璧にしてあります!」
アレクは風呂敷の結び目を解き、漆塗りの蓋を一段ずつ開けていった。
その瞬間、周囲の空気がふわっと香ばしい湯気と出汁の香りに包まれた。
「……ほう」
一段目には、魔界特産の『漆黒舞茸』と香草を炊き込んだ、つややかに輝く三角形のおにぎりが整然と並んでいる。
二段目には、ふっくらと黄金色に焼き上げられた出汁巻き卵。焦げ目一つない見事な巻き具合で、断面からじわりと出汁が染み出している。
三段目には、地底根菜の甘辛煮染めと、じっくり火を通したヘルハウンド肉の竜田揚げ。衣はサクサクとしており、油切れも完璧だった。
「彩り、栄養バランス、塩分濃度の配慮……実に美しい施工精度だ」
「せ、施工精度……!? 料理の感想にしては独特すぎますけど……でも、嬉しいです……!」
アレクは箸を手に取ると、まず出汁巻き卵を一つ口に運んだ。
咀嚼し、目を細める。
「……美味いな。塩味が絶妙だ。現場で汗をかいた身体に、カリウムとナトリウムが的確に補給される。出汁の引き方も丁寧だ、濁りがない」
「ほ、本当ですかっ!? よ、よかったぁぁ……!」
ルシアはその場にへたり込みそうになるほど安堵の息を漏らし、両手で頬を押さえてフニャフニャと蕩けるような笑顔を浮かべた。
背中の黒いコウモリ羽がパタパタと嬉しそうに羽ばたき、細い尻尾がご機嫌に左右へ揺れている。
サキュバスといえば男を惑わす妖艶な魔族の代表格のはずだが、今のルシアはどう見ても、憧れの先輩に手作り弁当を褒められて舞い上がっている純情な乙女そのものであった。
「次にこのおにぎりも……」
アレクが炊き込みおにぎりを頬張ると、舞茸の濃厚な旨味と米の甘みが口いっぱいに広がった。
「素晴らしい。現場作業員への福利厚生として、これ以上の昼食はない。ルシア、午後の配管耐圧試験に向け、10分な熱量が充填された」
「えへへ……! 主任にそう言っていただけるなら、明日も、明後日も作ってきます! 毎朝早起きして、主任のために特大の重箱を用意しますから……!」
ぐいぐいと距離を詰めて目を輝かせるルシア。
――だが、その微笑ましい光景を、背後から凄まじい眼光で睨みつけている存在がいた。
「…………ちょっと、お待ちいただけますか?」
氷点下の冷気すら凍りつきそうな、極めて静かでドスの利いた声。
ギルド職員の制服の上に作業用ベストを着込んだシエルが、両手を腰に当てて仁王立ちしていた。
その背後には、青白い炎のような嫉妬と闘志のオーラが立ち上っている。
「る、ルシアさん? ここは冒険者ギルドと魔王軍の『公式な合同現場』ですよ? 特定の現場監督官に対して、個人的な手作り弁当を供与するなど、明らかな利益誘導……いえ、現場の風紀を乱す越境行為ではありませんか!?」
「な、なんですってシエルさん! 私は純粋に、主任の日頃の過重労働を労おうと現場飯を差し入れただけです! 現場の安全管理には作業員の栄養補給が最重要だと、主任の書いた安全マニュアル第3条にも明記されています!」
「ぐっ……マニュアルを盾に取るなんて小癪な……! ですが、アレク先輩の専属補佐官は私です! 先輩の体調管理を預かるのも私の職務のはずです!」
「ふふん、職務職務とおっしゃいますが、シエルさんは今朝、主任に何か差し入れをなさいましたか? ギルドの売店で買った硬い干し肉をかじらせるのが、専属補佐官の体調管理なのですか?」
「うぐっ……!!」
ルシアの痛烈なカウンターに、シエルが胸を押さえてたじろいだ。
事実、今朝のシエルは現場の資材伝票の処理に追われ、売店の乾パンと干し肉で朝食を済ませていたのだ。
「わ、私だって……! 私だって料理くらいできます! 実家では教会の日曜学校の炊き出しを仕切っていたんですから! 明日です! 明日の昼休憩には、ルシアさんのお弁当の十倍美味しくて、栄養価満点の人類側最高峰のお弁当を作って持ってきますからね!!」
「あら、望むところです! 魔界の3000年の伝統料理と、人間の教会の炊き出し……どちらが主任の胃袋を掴むか、白黒ハッキリつけましょう!」
バチバチと視線から火花を散らす美少女二人の間で、アレクは我関せずといった様子で、黙々と竜田揚げを口に運んでいた。
「……うん、この竜田揚げ、下味に生姜が効いていて実に美味い」
「「主任(先輩)っ! 聞いてますか!?」」
二人のハモった怒声に、アレクはポカンと首を傾げた。
「ん? 何を言い争っているのかは知らんが、二人とも午後の予定を忘れるなよ。13時から十三階の主配管耐圧テストだ。現場の私闘は安全衛生規則違反で減給対象だぞ」
「「もうっ! そういうところですよ!!」」
完璧な現場監督でありながら、色恋沙汰に関しては驚異的な鈍感を誇るアレクに、二人は揃って脱力した。
その光景を遠くから眺めながら、エドワードは固いパンを齧りつつぼやいた。
「……なあリリアナ。あいつ、なんで魔王軍の可愛いサキュバスとギルドの美少女職員の両方から弁当争奪戦を挑まれて、竜田揚げの生姜の効き具合にしか感動してねえんだ? 前世でどんな徳を積んだらあんな無敵の鈍感男になれるんだよ」
「ふふ、エドワード様。アレク様にとって、世界の優先順位第一位は常に『現場の工期と構造物の水平度』ですから。色気で迷宮の壁は直せませんもの」
元聖女リリアナが、お茶をすすりながら穏やかな笑顔で毒を吐く。
足元ではスライムのポチが、ルシアからお裾分けしてもらった厚焼き卵の切れ端を体内に取り込み、幸せそうに黄金色の光を放っていた。
かくして、緊迫感あふれる国境メガダンジョンの昼休みは、奇妙な三角関係の火花を散らしながら、和やかに過ぎ去っていったのであった。




