第064話:エドワード、高所作業に目覚める
バベルの断層迷宮、地下13階。
先日の氷結騒動が一段落し、第一冷凍機室として生まれ変わった吸気ダクト周辺の冷気は、巨大な氷結貴族アルベールを室外機として組み込んだことで極めて安定した熱交換を見せていた。
だが、安堵していられたのは束の間のことである。
迷宮の深部へと続く大空洞――通称『大吹き抜け回廊』の天井付近から、不穏な摩擦音と湿った魔力蒸気の漏れが観測されたのだ。
「見ろよアレク、あそこの主配管だ。高さ15メートル、岩天井の直下に吊り下げられてる銅合金のバイパス管……継手フランジのボルトが2本、振動で緩んで魔力蒸気がシューシュー噴き出してやがる」
頑丈な黄色い安全ヘルメットを被ったドワーフの営繕課長、バルガンが太い指で天井を指差した。
見上げる天井は、首が痛くなるほどの高所である。
周囲の壁面はツルツルに風化した玄武岩で、足の踏み場などどこにもない。
しかも下は切り立った岩肌と、冷気が滞留して青白く凍りついた底なしの縦穴だ。
「フランジの緩みだけなら、パッキンを交換してトルクレンチで均等に締め直せば20分の作業です。……ですが、あそこに到達するための垂直昇降足場を組まなければ、手も足も出ませんね」
アレクは現場用の図面板に鉛筆を走らせながら、平然とした声で計算を始める。
だが、周囲に集まっていた人間の冒険者たちや、魔王軍から派遣されているゴブリンの工兵たちは、天井を見上げたまま一様に喉を鳴らして青ざめていた。
「じ、15メートルって……建物の四階か五階の高さだぞ……!?」
「あんなところで単管パイプを組むのかよ!? もし金具の留め具を踏み外したら、真っ逆さまに縦穴の底へ直行じゃねえか!」
「お、俺はパスだ! 魔物と戦う方が百倍マシだ!」
「俺たちゴブリンも、穴掘りは得意だが高所は無理だぎゃあ! 目が回る!」
屈強な戦士たちや魔族の兵士たちが、口々に弱音を吐いて後ずさりしていく。
魔物との命がけの戦闘には慣れていても、足場のない虚空でパイプを連結し、クランプを締め上げるという『静的な恐怖』は別物なのだ。
地上十数メートルの吹きさらしの空間では、風速数メートルの隙間風ですら身体を揺らす暴力となる。
「おいおい、情けねえ声出すな! だが困ったな、うちのドワーフの若い衆も横には頑丈だが、高所での軽快な身のこなしとなると重心が低すぎて小回りが利かねえ……。誰か、高所で単管を組める身軽な鳶はいねえのか?」
バルガンが困り果てて腕を組んだその時、背後でカチャカチャと金属音が鳴った。
作業着の腰袋にラチェットレンチを差し、両肩から二丁掛けの安全帯ベルトを吊るした青年――元勇者エドワードが、資材置き場から鋼管パイプを3本担いで歩いてきたのである。
「おい、どけよお前ら。邪魔だ。パイプの荷降ろしが終わったから、次はクランプの箱を運ぶんだよ。……おいアレク、さっさと指示出せ。オレの時給800ゴールドから借金返済分を引いた残り、今月中に少しでも手元に残さなきゃ、安宿のスープすら具なしになんだよ!」
不貞腐れた顔でパイプを地面に下ろしたエドワードに、アレクが静かな視線を向けた。
「エドワード。お前、さっきから腰の安全帯、一度も外していないな」
「あ? 当たり前だろ! 外したらお前、『安全帯不携帯は現場入場禁止、本日の日当全額没収』って冷酷な目で脅してくるじゃねえか! 二度と騙されるかよ!」
「感心だ。現場の基本が骨の髄まで染み込んでいる」
「褒めてんのか煽ってんのかどっちだ!?」
「ところでエドワード。お前はかつて『光の勇者』として、飛竜の背中からワイバーンを叩き斬ったり、断崖絶壁の遺跡を跳び移って魔王軍の砦に奇襲をかけたりしたそうだな」
「は? まあな。神速の跳躍術と、風の加護による完全な三半規管の安定化……それくらい勇者としちゃ基本スキルだ。どんな高所だろうが足場が揺れようが、オレの重心は一点のブレもねえ」
自慢げに胸を張るエドワードに、アレクは工具袋から親綱フックと足場用ハンマーを取り出し、ぽんと手渡した。
「よし。ならあそこの15メートルの主配管まで、単管本足場を組み上げてこい」
「はあぁぁぁぁっ!? 何言ってんだバカ! あんな高いところ、足場組む前にどうやって登るんだよ!?」
「お前が組みながら登るんだ。先行手すり工法だ。一段組んだら親綱をかけ、二丁掛けフックの片方を常に構造物へ固定しながら次の段を渡す。パイプを上に差し込み、直交クランプを噛ませてラチェットでカチャカチャと締める。ほら、手順書だ」
アレクから手渡された分厚い羊皮紙の図面には、狂気的なまでに精密なボルトの締め付けトルクと、パイプの交差角が書き込まれていた。
周囲の職人たちが「無茶だ」「死ぬぞ」と息を呑む中、エドワードはカチンときたように鼻を鳴らした。
「チッ……! オレを誰だと思ってやがんだ。元最高位勇者エドワード様だぞ! たかが棒きれを組み立てるだけの作業、魔王の幹部と斬り合うより簡単だってのを見せてやるよ!」
啖呵を切ったエドワードは、資材置き場から長い単管パイプを軽々と肩に担ぎ、腰にクランプの詰まった革袋を下げると、岩壁の根元に設けられた基礎ベースへと飛び乗った。
カチャッ、と鋭い金属音が響く。
安全帯の第一フックが親綱に掛けられ、もう1本のパイプが垂直に立てられる。
「……ッ、せりゃっ!」
エドワードの動きは、職人たちの予想を遥かに超えていた。
全身のバネと、かつて修羅場で鍛え上げられた超人的な体幹。
幅わずか5センチほどの鋼管の上を、猫のように無音で歩き、背筋をピンと伸ばしたまま、まったく揺らぎを見せない。
右足の親指先だけでパイプの継ぎ目を捉え、左手で担いだ5メートルの単管を垂直に保持しながら、右手のラチェットレンチを電光石火の速さで回す。
ガガガガッ! カチッ、カチッ!
「クランプ締結トルク、三十五ニュートン・メートル……! 次、横引きパイプを水平に渡す……! フックを掛け替えて、先行手すりを外側へ……!」
エドワードはブツブツと呪文のように施工手順を呟きながら、恐るべき速度で上空へと登り詰めていった。
5メートル。8メートル。10メートル。12メートル。
下から見上げる人間たちやゴブリンたちは、全員が口をあんぐりと開けて固まっていた。
吹き抜けの下から吹き上げる冷たい突風がエドワードのマントを激しく煽るが、その足腰はまるで大樹の根のようにパイプに吸い付いて微動だにしない。
「……すげえ」
冒険者の青年が呟いた。
「あいつ、あんな風の吹く高所で、一度も下を見ずにパイプを垂直に立ててるぞ……」
「なんだあのスピードは!? パイプを足で挟んで支えながら、両手でボルトを締めてやがる!」
「しかも、安全帯のフックを外す瞬間が一度もねえ! 必ずもう片方のフックを次の支柱に掛けてから、前のを外してる……! 完全無欠の二丁掛け移動だ!」
見上げるドワーフのバルガンが、思わずヘルメットを脱いで禿げ頭を掻いた。
「たまげたな……! あいつ、力任せに聖剣を振り回してるだけのバカかと思ってたが、あの重心の移動、足の裏の感覚の鋭さ……本物の鳶の神童じゃねえか!」
上空14メートルの地点で、エドワード自身も奇妙な感覚に包まれていた。
足下を吹き抜ける風の冷たさ。
遥か下に見える仲間たちの小さな頭。
普通なら足がすくみ、内臓がせり上がってくるはずの高度。
だが――不思議と、怖くないのだ。
(……あれ? オレ、なんでこんなに落ち着いてんだ……?)
かつて聖剣を握っていた頃は、いつ魔物に背後を取られるか、いつ仲間が死ぬか、民衆の期待を裏切らないかという重圧で、常に胃の奥が焼き切れるように痛んでいた。
だが、今は違う。
自分が水平器で測り、トルクレンチで確実に締めたパイプは、自分の体重を絶対に裏切らずに支えてくれる。
足の裏から伝わる鋼の剛性感。
自分が組んだ四角い空間が、天に向かって整然と伸びていくその美しさ。
(オレの組んだ足場が……ビクともしねえ。オレの身体の重さを、完全に受け止めてやがる……!)
カチャッ、と最後の最上段作業床(幅40センチの鋼製布板)がカチリと噛み合い、手すりが完全に固定された。
15メートル地点の主配管直下に、揺るぎない作業プラットフォームが完成した瞬間だった。
「――おーい! アレク! 最上段、手すり先行足場組み上がったぞ! 揺れ止めも壁の岩肌に四箇所、アンカー打って固定した! いつでも上がってこれるぞ!」
上空から見下ろしながら叫ぶエドワードの声は、誇らしげで、どこか晴れやかだった。
地上で見守っていたゴブリン工兵たちと冒険者たちから、地鳴りのような拍手と歓声が沸き起こった。
「うおおおおっ! すげえぞ元勇者!」
「たった20分で15メートルの足場を組みやがった!」
「神業だ! これなら俺たちでも配管まで登れるぞ!」
アレクは工具箱を腰に下げると、エドワードが組んだ梯子に足をかけ、静かに登ってきた。
最上段に到達したアレクは、足場の支柱を踵でトンと蹴り、クランプの締め付けを目視で確認する。
「垂直度、誤差1ミリ以内。水平も狂いがない。アンカーの打ち込み深さも規定通りだ」
「ふん! どうだアレク! 文句のつけようがねえだろ!」
エドワードがドヤ顔で鼻を擦る。
アレクはエドワードの目をまっすぐに見つめ、ヘルメットの鍔を押し上げた。
「筋がいいな。エドワード、お前には足場鳶としての天性の才能がある」
「――――え?」
エドワードの動きが完全に停止した。
今まで、どんなに頑張っても「お前は解体しかできない」「現場の迷惑だ」「借金を返せ」としか言われなかった男である。
そのアレクの口から、寸分の嫌味もなく、淡々と純粋な賛辞が放たれたのだ。
「……え、あ……お、おう……?」
「この高さで恐怖に呑まれず、手順を遵守し、三半規管を施工の精度に変換できる人材は滅多にいない。バルガンの親方にも話して、お前を高所架設の主任鳶補佐に推薦しておく」
「しゅ、主任鳶補佐……!? いや、待て! オレは勇者だぞ!? なんで現場の専門職として順調に出世街道に乗せられそうになってんだよ!?」
「日当が200ゴールド上がるぞ」
「やります!! 主任鳶補佐、謹んでお受けいたします!!」
即座に深々と頭を下げるエドワードの現金さに、足場の下で見上げていたシエルが額を押さえてため息をついた。
「……エドワード様、本当に骨の髄まで職人の世界に染まってしまわれましたね……」
その横で、スライムのポチが『祝・昇給』と書かれたゼリー状の小さな垂れ幕を掲げ、プルプルと祝福のダンスを踊っていた。
こうして、元勇者エドワードの高所作業員としての華々しいキャリアが、バベルの断層迷宮の天井直下で幕を開けたのであった。




