第060話:ポチの氷上コーティングと塩化カルシウム散布
主給水本管の凍結破裂危機を脱した第十二階層の主回廊。
しかし、現場にはまだ重大な二次災害の危険が横たわっていた。
広さ数百平方メートルに及ぶ石畳の床一面が、アルベールの放った冷気によって厚さ20センチのツルツルな氷の板――完全なスケートリンク状態になっていたのだ。
「うわああああっ!?」
足場から降りてきたエドワードが、一歩踏み出した瞬間に両足を天高く跳ね上げ、見事な背落ちで氷上に激突した。
――ドシャァァン!!
「い、痛ぇぇぇっ! 尾てい骨が割れた……!」
シエルも小走りで駆け寄り、エドワードのツナギの背中についた氷の粉を払った。
「頭を打たなくて本当に良かったです。氷の張った硬い石畳での転倒は、頭蓋骨骨折の危険が非常に高いですからね」
「おう……ありがとうシエル……。エルフに優しくされると、ちょっと泣きそうになるぜ……」
「泣く前に立ち上がってください、次の作業があります!」
「エドワードさん、だから走らないでと言ったでしょう!」
ルシアがアイゼンを効かせながら駆け寄り、手を差し伸べた。
「凍結した床面は、摩擦係数が通常の10分の一以下まで低下しているんです! 一歩踏み外すだけで重大な転倒骨折事故に繋がります!」
「こ、こんなツルツルの床じゃ、作業車も運べねえし資材も搬出できねえぞ……!」
エドワードが涙目で尻をさする。
「その通りじゃ」
バルガンも眉をひそめ、巨大スパナを杖のように突いて立った。
「床面の防滑処理をせんことには、安全通路が確保できん。バーナーで全部溶かすには時間がかかりすぎるし、溶けた水が再び凍ってさらに滑る悪循環じゃ」
そんな中。
アレクが腰の工具袋から取り出したのは、二つのアイテムだった。
一つは、白い粉末がぎっしり詰まった麻袋。
もう一つは――足元でスタンバイしていた黄色い相棒だった。
「ポチ」
「ぷるっ!」
「《表面張力・防滑不凍液ローラーモード》だ。背中のタンクの塩化カルシウムを溶かし込みながら、床面を均一にコーティングしろ」
「ぷるるーっ!!」
ポチは元気よく鳴くと、背中の小さな真鍮タンクのバルブを前足(触手)で器用に開いた。
次の瞬間、ポチの黄色い体がボヨンと大きく平たく広がり、幅2メートル、厚さ3センチの巨大な平べったいゼリー状のローラーへと変形した。頭のミニチュア安全ヘルメットだけが、ちょこんと先端で誇らしげに光っている。
「ポチさんが……道路舗装ローラーになりました……!?」
ルシアが目を見開いた。
ポチは氷の上を「ぷるるるるるん!」と小気味よい音を立てて高速疾走を始めた。
ただ走るのではない。
体内に取り込んだ塩化カルシウムの粉末を自らの粘液と絶妙な比率で混合し、氷の表面に噴射しながら走行しているのだ。
――ジュワワワワワッ!!
塩化カルシウムの凝固点降下作用により、凍りついていた氷の表面が一瞬でシャーベット状へと融解していく。さらにポチの弾力あるボディが、そのシャーベットを均一に押し固め、表面に微細な凹凸(スリップ防止溝)を彫り込んでいくのだ。
「す……すごい……!」
シエルが感嘆の声を上げた。
「ポチさんの通過した跡だけ、氷が溶けてザラザラした滑り止め舗装に変わっています! 摩擦係数、通常石畳と同等まで回復しています!」
「よし、エドワード!」
アレクがスコップを放り投げた。
「は、はいっ!?」
「ポチが作った安全通路の脇に、滑り止め用の粗目砂を撒け! 幅1メートル、厚さ3ミリだ! 手首のスナップを効かせて均等に散布しろ!」
「お、おうよ! 砂撒きなら任せろ!」
エドワードがスコップで砂袋から砂利を掬い、見事な扇形を描いて氷上に撒き散らしていった。
かつての勇者の剣技が、ここでも砂撒きの正確無比な散布パターンとして完璧に機能していた。
エドワードはスコップの手を休めることなく、さらに勢いを増して砂を撒いた。
「オレは……オレは借金返済のためにやってるんじゃねえ! この通路を歩く奴らが、二度と滑って転ばないように撒いてるんだ!」
「おおっ! エドワード様、完全に職人の鑑のセリフですね♡」
リリアナが目を細めて微笑み、シエルも「素晴らしい心がけです!」と拍手した。
「ふん、現場の安全は、誰かの思いやりと段取りでできてるんだ。少しは分かってきたようだな」
アレクが珍しく穏やかな声で呟いた。
「エド坊、いいスナップじゃ! 均一に砂が広がっとるぞ!」
バルガンが笑い、リリアナも手を叩いて応援する。
「エドワード様、素晴らしい手際ですね♡ まるで王都の道路公団のベテラン職員のようです♡」
「褒められてる気がしねえけど、手が止まらねえぇぇっ!」
エドワードが汗を飛ばしてスコップを振るう。
ポチの不凍液コーティングと、エドワードの粗目砂散布のコンビネーションにより、わずか10分で、第十二階層の回廊の中央に、幅3メートルの完全な『安全歩行通路』が貫通した。
「よし! 主動線、防滑処理完了! 指さし確認いくぞ!」
アレクが右手を突き出した。
「床面摩擦係数、ヨシ! 滑り止め砂散布、ヨシ! 安全通路確保――ヨシ!」
「「「「ヨシ!!」」」」
全員の合図が響き渡った。
そんな職人たちの完璧な連係プレーの脇で。
玉座の上で冷気を吸い取られ、熱交換ダクトに囲まれていたアルベールが、プルプルと震えながら呆然と呟いた。
「な……何なのだ、この者たちは……? 我が絶対零度の氷河を……スリップ防止舗装に変えてしまうなど……あり得ぬ……!」
アレクは冷徹な眼差しで、その青白い貴族を見上げた。
「アルベール。お前の冷気は全部計算通りだ。さて、次はてめえの就職先の決定だな」
「し、就職先だと……!? 貴様、この公爵家嫡男に向かって何を不敬な――」
「不敬もクソもねえ。お前のやらかした器物破損の損害査定だ」
アレクはバインダーを叩いた。
「給水管緊急バイパス工事費、解氷スチーム燃料代、防滑塩化カルシウム散布費、仮設足場損料。総額3000万ゴールドだ。一括で払えるか?」
「さ、3000万ゴールド……!? ふ、ふざけるな! そんな大金を軍事費から出せるはずが――」
「払えないなら、現物労働で相殺だ。ちょうどいい空調室外機の空きポストがある」
ルシアが手帳を広げて、キリッとした表情で告げた。
「アルベール様、魔王軍施設営繕令第百二条に基づき、軍事活動における過剰エネルギーの未回収損害は、発生責任者の現物役務提供により補填することが義務付けられています! 先ほどバルガン課長と人間側の安全委員会で承認されました!」
「ば、バルガン……! 我が公爵家を売ったのか!」
「売ったんじゃねえ、現場の貸し借りじゃ!」
バルガンが鼻を鳴らした。
「テメエのケツはテメエで拭け! 冷気を出すしか能がねえなら、その冷気を誰かの役に立てるのが本物の男じゃろうが!」
クロがアレクの肩の上でケケケと笑った。
「ケケッ! 決まりだな! ボイラー室長のアフロ竜に続いて、今度は冷凍機室長のイキリ貴族の誕生だァッ!」
アレクの冷たい眼光に、アルベールは背筋を凍りつかせた。
アレクは懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開いた。
「16時40分。安全通路貫通確認、配管保温完了。定時まであと20分。本日の仕上げに入るぞ」
「「「了解!!」」」
ポチが「ぷるるーっ!」と満足そうに跳ね、作業員たちの足元を温かな達成感が包み込んでいた。
中二病貴族の運命は、すでに職人の掌の上で完全に決定していたのだった。




