第056話:冷気漏洩警報:氷点下二十度の通路
国境メガ迷宮の合同現場安全衛生委員会が設立されてから、3日が経過した。
人間側と魔族側の境界線である第三ゲート周辺は、黄色い養生テープが規則正しく貼られ、散乱していた瓦礫の八割が撤去されていた。通路の角には「整理整頓」「頭上注意」「作業半径内立入禁止」の看板が立てられ、かつての無法地帯は見違えるほどクリーンな作業現場へと変貌を遂げていた。現場の空気が澄み、作業効率は連日更新されていた。
午前10時。
アレクは現場事務所として整備された詰所で、真鍮の万年筆を走らせ、午後の資材搬入手順書を作成していた。
「主任、お茶のおかわりをどうぞ♡ 今日は現場の埃を洗い流す、特製のミントハーブティーです!」
ルシアが嬉しそうに湯気の立つ湯呑みを差し出した。ツナギの腕まくりをしたその健康的な白い手首には、アレクから支給されたばかりの新しい革製リストバンドが巻かれている。
「ありがとう、ルシア。温度がちょうどいい」
「ふふ、ルシアさん、主任にお茶を淹れるスピードだけは一人前ですね」
隣で図面の修正をしていたシエルが、眼鏡の奥の透き通るような碧眼を細めてツッコミを入れた。
「シエル先輩、お茶汲みも現場代理人の大事な資質ですよ〜? 作業員の水分補給と体温管理を見極めるのは職人の基本ですから!」
「それはそうですけれど、主任に密着しすぎです!」
二人の美少女が和気藹々と火花を散らしていた、まさにそのときだった。
――ジリリリリリリリッ!!
詰所の壁に設置された、国境迷宮管理局の魔導警報ベルが、耳を劈くような金属音を立ててけたたましく鳴り響いた。
「な、何事ですか!?」
シエルが弾かれたように飛び起きて計器盤へ駆け寄った。
計器盤の真鍮メーター。その中のひとつ――第十二階層の幹線通路を示す温度計の針が、狂ったような勢いで左へと振り切れていた。目盛りがゼロ度を割り込み、一気にマイナス圏へと落ち込んでいく。
「第十二階層の主回廊……現在温度、マイナス十五度……いえ、マイナス二十度まで急降下しています! さらに大気圧も局所的に上昇中!」
「マイナス二十度だと?」
アレクがバインダーを置き、眉をひそめた。
「この時期の迷宮内殻は、地下深部の地熱の影響で常時十五度前後に保たれているはずだ。急激な熱源喪失か? それとも冷気魔法の暴走か」
そこへ、通路の奥からバルガンがドスドスと地鳴りのような足音を立てて駆け込んできた。背中の巨大スパナがガタガタと音を立てている。
「おい、アレク! 大変じゃ! 第十二階層の様子がおかしい!」
「バルガン課長、温度が氷点下二十度を突破しています! 何が起きているんですか!?」
ルシアが尋ねると、バルガンは三つ編みの白い髭を苛立たしそうに噛んだ。
「魔王軍のクソガキ幹部じゃ! 【氷結貴族アルベール】の若造が、手柄を焦って自分の直属兵団を引き連れ、第十二階層を丸ごと凍結させて人間側の侵攻を食い止めるとか喚いておる!」
「……バカ野郎」
アレクの口から、低く冷え切った怒声が漏れた。
「第十二階層の壁内には、国境迷宮全体の生活用水と冷却水を循環させている『主給水本管』が埋設されてるはずだ。あそこを氷点下二十度まで冷やしたらどうなるか、そのアホ幹部は知らんのか」
「知るわけなかろうが! 上の貴族様がインフラの配管図面なんぞ見るかボケが!」
バルガンが唾を飛ばして怒鳴った。
「『我が至高の絶対零度を見よ』とか抜かして、回廊の壁一面に氷漬けにして悦に入っとるんじゃ! 現場の迷惑なんぞ毛頭考えておらん!」
シエルが青ざめて息を呑んだ。
「主給水本管の……凍結……! 水が凍ると、体積が約9パーセント膨張します……! 密閉された鋳鉄管の中で水が膨張したら――」
「配管の**凍結破裂**だ」
アレクが即座に言い放った。
「管の継手と溶接部が内圧で吹き飛び、破裂した瞬間、毎分数10トンの高圧水が通路へ噴出する。凍結した水が水蒸気爆発のように吹き荒れ、第十二階層から下の三フロアが泥水で水没、落盤事故で全館崩壊だ」
「ひ、全館崩壊……!?」
部屋の隅でスコップを磨いていたエドワードが、白目を剥いて叫んだ。
「オ、オレの時給800ゴールドの現場が……また沈むのかよぉぉぉっ!? せっかく昨日、瓦礫を3トン運んで達成感に浸ってたのに!」
「エドワード様、騒いでも温度は上がりませんよ♡」
エドワードは黄色いヘルメットを被り直し、鉄スコップを握りしめた。
「オレだって……オレだって、ただのバイトで終わりたくねえんだ! 氷だろうが何だろうが、砕いてやるよ!」
「頼もしいですね、エドワード様♡ ただしスコップの刃を岩にぶつけて欠けさせたら、弁償代として金貨三枚ですからね♡」
「いちいち金の話を挟むなあああっ!」
リリアナが救急鞄を手早くまとめながら、冷ややかに告げた。
「凍結破裂に巻き込まれたら、凍傷と水圧で四肢が千切れますからね♡ その時は綺麗に縫合して差し上げます♡」
「縁起でもねえこと言うなあああっ!!」
「騒ぐな、エドワード」
アレクは現場用ゴーグルをすちゃりと目元に装着し、工具箱から大型の魔導インパクトレンチと耐寒グローブを引っ張り出した。
「配管が破裂するまでの猶予は、水温から逆算して最大40分だ。シエル、高圧スチーム解氷機の準備! ルシア、第十二階層の給水弁の図面を広げろ! リリアナ、凍傷用の温熱軟膏と耐寒ケープを作業員全員分!」
「はい、主任!」
「了解いたしました♡ 凍った耳たぶがもげないように、特製の防寒ポーションを持参しますね♡」
「クロ、先行して換気シャフトの結氷状況を偵察! ポチ、不凍液タンクを背負え!」
「ケケッ! 了解だ旦那! 羽が凍る前にひとっ飛びしてくらあ!」
「ぷるるーっ!」
ポチが元気よく跳ね、背中に小さな真鍮タンクを背負って敬礼した。
ルシアが手早く配管系統図を広げ、細い指で特定のバルブを指し示した。
「アレク主任! 第十二階層の第14工区に、主給水本管を迂回させるための緊急バイパス用仕切り弁があります! あそこのバルブを開放して水を抜けば、凍結による内圧上昇を1時的に逃がすことができます!」
「さすがルシア、図面が頭に入ってるな。段取りがいい」
「えへへ……! 主任に褒められちゃいました!」
ルシアが照れ臭そうに羊角を赤くする。
「ふん、私だってその仕切り弁の位置くらい把握していました!」
シエルが負けじと胸を張り、二人の現場ヒロインが並んで階段を駆け下りていく。
「工期30分。目標は配管の保護と、現場荒らしの馬鹿幹部の無力化だ。指さし確認いくぞ!」
アレクが右手を鋭く突き出した。
「防寒具着用、ヨシ! 解氷機材搬入、ヨシ! 第十二階層突入――ヨシ!」
「「「「ヨシ!!」」」」
階段を下りるにつれて、吐く息が白くなり、手すりの鉄が肌に張り付くような冷気が押し寄せてくる。
「さ、寒いです……! 鼻毛が凍りそうです!」
「弱音を吐くな、シエル。手袋を外すなよ。凍傷は一瞬で神経を殺す。全員、互いの顔色を確認しながら進め」
アレクの冷徹な声が、凍りつく通路に温かな規律を与えていた。
極寒の地獄へと変貌しつつある迷宮の深層へ向けて、原状回復班の突貫部隊が迷いのない足取りで駆け出していった。
破滅の凍結カウントダウンは、すでに始まっていた。




