第050話:敵対……ではなく資材の貸し借り
巨大な石梁の崩落事故を間一髪で回避した排気室。
アレクが油圧ジャッキをガッチリと据え付けたことで、天井のミシミシという軋み音は完全に収まり、部屋には再び静けさが戻っていた。
「ふう……仮設受圧工、完了だ。これで一週間はビクともせん」
アレクはインパクトレンチを腰のホルダーに収めると、床にへたり込んだままのアフロ……ではなくツインテールのサキュバス、ルシアを見下ろした。
「おい、ルシア。いつまで座り込んでる。足元に転がってるのは誰の道具だ」
「は、はいっ!」
ルシアは跳ね起きるように立ち上がった。その拍子に、小さな羊角がアレクの胸元にコツンと当たり、ルシアは「ひゃぅっ!?」と情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
「す、すみません! 角が……! あ、あの、アレク主任さん、本当にありがとうございました……! 私、死ぬかと思いました……!」
「礼には及ばん。現場の安全管理上、作業員が頭上の落下物で圧死するのは最も防ぐべき重大事故だ。――それより」
アレクの視線が、ルシアの足元へと落ちた。
ルシアの履いている作業靴。左足の爪先部分が、先ほどの崩落の破片で擦れ、安全靴の鉄芯が斜めに歪んで革を破りかけていた。靴紐も千切れかけている。
「……靴の鉄芯が変形してるな。それじゃ指先が圧迫されて踏ん張りが効かん。危険だ」
「えっ? あ、はい……実は支給された靴のサイズがちょっと合ってなくて、ずっと誤魔化しながら使ってたんです……」
ルシアが恥ずかしそうに足を引っ込める。
アレクは迷うことなく、自らの大型ツールバッグの留め金を外した。
「ほら」
放り投げられたのは、厚手の耐摩耗性靴紐と、予備の強化チタン製インソール、そして作業用の革手袋だった。
「これを使え。チタン板を底に敷けば踏み抜き事故を防げる。靴紐は八の字結びで締めろ、緩まん」
「え……!? こ、これ……人間側の、最高級の資材じゃないですか……!? 私、敵の魔王軍なのに……もらっていいんですか……!?」
ルシアが目を白黒させて受け取った。
「敵だろうが味方だろうが、同じ現場で足場を踏む奴が怪我をしたら作業が止まる。道具をケチって事故を起こすのが一番高くつくんだよ」
アレクのぶっきらぼうな正論に、ルシアの胸が再びキュンと締め付けられた。
「あ、ありがとうございます……! 大切に使います……! 宝物にします……!」
「宝物にするな。道具は使い倒してナンボだ」
アレクがため息をつく横で、シエルがむくれた顔で腕を組んでいた。
「もう……主任は誰に対しても無駄に面倒見がいいんですから。エルフにも魔族にも関係なく資材を配るなんて……」
「監査官殿、資材台帳には『現場安全補助費』として計上しておけ。エレノアの決済印は取ってある」
「そういう事務処理だけは完璧なんですね……」
シエルが呆れ交じりに肩を竦めた。
一方、アレクはルシアが落とした図面ケースから転がり出た、一枚の羊皮紙に目を留めた。
「おい、これはお前が引いた図面か」
「あ、はい! 第三ゲートから排気室までの、バイパス排水溝の施工図面です!」
ルシアが慌てて膝をついて図面を広げた。
アレクはバインダーから真鍮の三角スケールを取り出し、図面のラインに当てた。
「……勾配計算が狂ってるぞ。ここだ」
アレクの指先が、図面の中央、曲がり角の合流部を鋭く突いた。
「ここ、排水勾配を百分の一で取ってるだろ。だが、この区画の岩盤は酸性の浸出水が多い。ヘドロの粘度を考慮すれば、最低でも50分の一の傾斜をつけないと、三ヶ月で曲がり角にスラッジが堆積して詰まるぞ」
「えっ……!?」
ルシアが目を見開いて図面にかぶりついた。
「ほ、本当だ……! 私、水の流速だけで計算して、酸性スラッジの比重を引くのを忘れていました……! すごい……どうして一目でそんなことが分かるんですか!?」
「図面を引く前に、現地の水質を舐めて確かめろ。舌先がピリピリすれば強酸性だ。現場のデータは自分の五感で測るもんだ」
「す、水質を舐める……!? すごい……なんて野生の職人魂……!」
ルシアは感動のあまり、瞳をキラキラと輝かせて両手を胸の前で組んだ。
「アレク主任……! あなたは神様ですか……!?」
「ただの原状回復士だ。拝むな、埃が舞う」
アレクが軽く手で払うと、ルシアはますます頬を赤らめて擦り寄ってきた。
「あの……! もしよろしければ、この先の給気ダクトの設計図も見ていただけませんか!? 私、どうしても圧力損失の計算が合わなくて……!」
「見せるのは構わんが、俺の指導料は安くねえぞ。魔王領の特産モルタル三袋で手を打ってやる」
「はい! 十袋でも二十袋でも持ってきます!」
「ちょっと、ルシアさん! 主任に近すぎます!」
シエルが間に割って入り、ルシアをツンと押し戻した。
「主任は私の……じゃなくて、人間側の専属現場代理人なんですから! 勝手に相談を持ちかけないでください!」
「え〜? でも、現場の安全に種族の壁はないって、主任さんがおっしゃいましたよ〜?」
ルシアが首をかしげ、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「ふふ、エルフの監査官さん、もしかして妬いてるんですか〜?」
「や、妬いてなんかいません!! 業務上のテリトリーの話です!!」
シエルの耳が真っ赤に跳ね上がる。
リリアナが救急鞄を開きながら、楽しそうにクスクスと笑った。
「まあまあ、シエルさん。ライバル登場ですね♡ 主任は手のかかる現場と頑丈なボルトには目移りしますが、女性の色気には鉄壁ですから、お互い頑張り甲斐がありますよ♡」
「リリアナさんまで何を言っているんですか!」
エドワードが遠巻きにスコップを抱えて震えながら呟いた。
「な、なんで魔族のサキュバスとエルフの美少女が、あんな無愛想なツナギ男を取り合ってんだ……? オレは選ばれし勇者だぞ……なぜオレには見向きもしねえんだ……!」
「エドワード様、あなたは借金が1億2000万ゴールドあるただの見習いバイトですからね♡ 早くそこの瓦礫を掃き集めてください」
「容赦ねええええっ!!」
国境の冷たい石造りの排気室で、人間と魔族の奇妙な大騒ぎが繰り広げられる。
そんな騒ぎの最中。
ズズズ……! ドォォォン!!
通路の奥から、巨大な鉄の塊が床を引きずるような、凄まじい地響きが近づいてきた。
「おいおいおい、旦那!」
クロがアレクの肩の上で身構えた。
「奥からヤベえ気配が近づいてくるぜ! 酒臭くて、鉄錆臭くて、死ぬほど頑固そうな気配だ!」
「ぷるるっ!?」
ポチがアレクの足元に隠れる。
現れたのは、身の丈は低いが、横幅がアレクの倍はある、筋肉の塊のような筋骨隆々のドワーフだった。
背中には身の丈ほどもある巨大な鋼鉄製モンキースパナを背負い、もじゃもじゃの白髭を三つ編みにして胸元まで垂らしている。頭には傷だらけの鉄兜、煤まみれの厚い革前掛けを巻いたその男は、血走った眼光で部屋中を睨み回した。
「ルシアァァァッ!! 無事かコラァァッ!! どこぞの人間どもの爆薬で天井が落ちたと聞いて飛んできたぞォォッ!!」
地鳴りのような怒声が、排気室の空気を震わせた。
ルシアが慌てて手を振った。
「か、課長! 私、無事です! こちらの人間側の親方さんが、油圧ジャッキで梁を受け止めて助けてくれたんです!」
「ああん……!? 人間が……助けたぁ……!?」
もじゃもじゃ髭のドワーフが、疑わしそうに小さな目を剥き、ズンズンとアレクの前へと歩み寄ってきたのだった。




